スたず》んでゐた。……

     15[#「15」は縦中横] クリストの歎声

 クリストは比喩を話した後、「どうしてお前たちはわからないか?」と言つた。この歎声も亦度たび繰り返されてゐる。それは彼ほど我々人間を知り、彼ほどボヘミア的生活をつづけたものには或は滑稽に見えるであらう。しかし彼はヒステリツクに時々かう叫ばずにはゐられなかつた。阿呆たちは彼を殺した後、世界中に大きい寺院を建ててゐる。が、我々はそれ等の寺院にやはり彼の歎声を感ずるであらう。
「どうしてお前たちはわからないか?」――それはクリストひとりの歎声ではない。後代にも見じめに死んで行つた、あらゆるクリストたちの歎声である。

     16[#「16」は縦中横] サドカイの徒やパリサイの徒

 サドカイの徒やパリサイの徒はクリストよりも事実上不滅である。この事実を指摘したのは「進化論」の著者ダアウインだつた。彼等は今後も地衣類《ちいるゐ》のやうにいつまでも地上に生存するであらう。「適者生存」は彼等には正に当嵌《あては》まる言葉である。彼等ほど地上の適者はない。彼等は何の感激もなしに油断のない処世術を講じてゐる。マリアは恐らくクリストの彼等の一人でなかつたことを悲しんだであらう。ゲエテをベエトホオヴエンの罵《ののし》つたのは正にゲエテ自身の中にゐるサドカイの徒やパリサイの徒を罵つたのだつた。

     17[#「17」は縦中横] カヤパ

 祭司の長《をさ》だつたカヤパにも後代の憎しみは集つてゐる。彼はクリストを憎んでゐたであらう。が、必しもこの憎しみは彼一人にあつた訣《わけ》ではない。唯彼を推し立てることのクリストを憎み或は妬《ねた》んだ大勢の人々に便利だつたからである。カヤパはきららに袍《ほう》を着下《きくだ》し、冷かにクリストを眺めてゐたであらう。現世はそこにピラトと共に意気地のない聖霊の子供を嘲《あざけ》つてゐる。燃えさかる松明《たいまつ》の光りの中に。……

     18[#「18」は縦中横] 二人の盗人たち

 クリストの死の不評判だつたことは彼の十字架にかかる時にも盗人たちと一しよだつたのに明らかである。盗人たちの一人はクリストを罵ることを憚《はばか》らなかつた。彼の言葉は彼自身の中にやはり人生の為に打ち倒されたクリストを見出したことを示してゐる。しかしもう一人の盗人は彼よりも更に妄想《まうさう》を持つてゐた。クリストはこの盗人の言葉に彼の心を動かしたであらう。この盗人を慰めた彼の言葉は同時に又彼自身を慰めてゐる。
「お前はお前の信仰の為に必ず天国にはひるであらう。」
 後代はこの盗人に彼等の同情を示してゐる。が、もう一人の盗人には、――クリストを罵つた盗人には軽蔑を示してゐるのに過きない。それは正にクリストの教へた詩的正義の勝利を示すものであらう。が、彼等は、――サドカイの徒やパリサイの徒は今日でも私《ひそ》かにこの盗人に賛成してゐる。事実上天国にはひることは彼等には無花果《いちじゆく》や真桑瓜《まくはうり》の汁を啜《すす》るほど重大ではない。

     19[#「19」は縦中横] 兵卒たち

 兵卒たちは十字架の下にクリストの衣《ころも》を分《わか》ち合つた。彼等には彼の衣の外に彼の持つてゐたものは見えなかつたのである。彼等は定めし肩幅の広い模範的兵卒たちだつたのに違ひない。クリストは定めし彼等を見おろし、彼等の所業を軽蔑したであらう。しかし又同時に是認したであらう。クリストはクリスト自身の外には我々人間を理解してゐる。彼の教へた言葉によれば、感傷主義的詠嘆は最もクリストの嫌つたものだつた。

     20[#「20」は縦中横] 受難

 十字架にかかつたクリストは多少の虚栄心を持つてゐたものの、彼の肉体的苦痛と共に精神的苦痛にも襲はれたであらう。殊《こと》に十字架を見守つてゐたマリアを眺めることは苦しかつた訣《わけ》である。が、彼は「エリ、エリ、ラマサバクタニ」と云ふ必死の声を挙げた後も(たとひそれは彼の愛する讃美歌の一節だつたにもせよ)彼の息の絶える前には何かおほ声を発してゐた。我々はこのおほ声の中に或は唯死に迫つた力を感ずるばかりであらう。しかしマタイの言葉によれば、「殿《みや》の幔上《まくうへ》より下まで裂けて二つになり、又地|震《ふる》ひて岩裂け、墓ひらけて既に寝《い》ねたる聖徒の身多く甦《よみがへ》」つた。彼の死は確かに大勢の人々にかう云ふシヨツクを与へたであらう。(マリアの脳貧血を起したことを記してゐないのは新約聖書の威厳を尊んだからである。)クリストの一言一行に永遠の註釈を与へてゐるパピニさへこの事実はマタイを引いてゐるのに過ぎない。彼自身を欺《あざむ》いてゐるパピニの詩的情熱はそこにも亦馬脚を露《あらは》してゐる。クリ
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング