z《まうさう》を持つてゐた。クリストはこの盗人の言葉に彼の心を動かしたであらう。この盗人を慰めた彼の言葉は同時に又彼自身を慰めてゐる。
「お前はお前の信仰の為に必ず天国にはひるであらう。」
 後代はこの盗人に彼等の同情を示してゐる。が、もう一人の盗人には、――クリストを罵つた盗人には軽蔑を示してゐるのに過きない。それは正にクリストの教へた詩的正義の勝利を示すものであらう。が、彼等は、――サドカイの徒やパリサイの徒は今日でも私《ひそ》かにこの盗人に賛成してゐる。事実上天国にはひることは彼等には無花果《いちじゆく》や真桑瓜《まくはうり》の汁を啜《すす》るほど重大ではない。

     19[#「19」は縦中横] 兵卒たち

 兵卒たちは十字架の下にクリストの衣《ころも》を分《わか》ち合つた。彼等には彼の衣の外に彼の持つてゐたものは見えなかつたのである。彼等は定めし肩幅の広い模範的兵卒たちだつたのに違ひない。クリストは定めし彼等を見おろし、彼等の所業を軽蔑したであらう。しかし又同時に是認したであらう。クリストはクリスト自身の外には我々人間を理解してゐる。彼の教へた言葉によれば、感傷主義的詠嘆は最もクリストの嫌つたものだつた。

     20[#「20」は縦中横] 受難

 十字架にかかつたクリストは多少の虚栄心を持つてゐたものの、彼の肉体的苦痛と共に精神的苦痛にも襲はれたであらう。殊《こと》に十字架を見守つてゐたマリアを眺めることは苦しかつた訣《わけ》である。が、彼は「エリ、エリ、ラマサバクタニ」と云ふ必死の声を挙げた後も(たとひそれは彼の愛する讃美歌の一節だつたにもせよ)彼の息の絶える前には何かおほ声を発してゐた。我々はこのおほ声の中に或は唯死に迫つた力を感ずるばかりであらう。しかしマタイの言葉によれば、「殿《みや》の幔上《まくうへ》より下まで裂けて二つになり、又地|震《ふる》ひて岩裂け、墓ひらけて既に寝《い》ねたる聖徒の身多く甦《よみがへ》」つた。彼の死は確かに大勢の人々にかう云ふシヨツクを与へたであらう。(マリアの脳貧血を起したことを記してゐないのは新約聖書の威厳を尊んだからである。)クリストの一言一行に永遠の註釈を与へてゐるパピニさへこの事実はマタイを引いてゐるのに過ぎない。彼自身を欺《あざむ》いてゐるパピニの詩的情熱はそこにも亦馬脚を露《あらは》してゐる。クリ
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