うな女が会釈《ゑしやく》をした時、おれは相手を卑《いや》しむより先に、こちらも眼で笑ひながら、黙礼を返さずにはゐられなかつた。
 それから毎日夕方になると、必ず混血児《あひのこ》の女は向うの窓の前へ立つて、下品な嬌態《けうたい》をつくりながら、慇懃《いんぎん》におれへ会釈《ゑしやく》をする。時によると鉢植の薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花を折つて、往来越しにこちらの窓へ投げてよこす事もある。
 するとおれもいつの間《ま》にか、古ぼけた肱掛椅子《ひぢかけいす》に腰を下して、往来の人音を聞く事が懶《ものう》いやうになり始めた。いくらおれが待ち暮した所で、客は永久に来ないかも知れない。おれはあまり長い間《あひだ》、鏡にうつるおれ自身の相手を勤めてゐたやうな気がする。もう遠来の客ばかり待つてゐるのは止めにしよう。
 そこであの私窩子《しくわし》のやうな女が会釈《ゑしやく》をすると、おれの方でも必ず会釈《ゑしやく》をする。
 それが又長い長い間の事であつた。
 所が或朝、おれの所へ来た手紙を見ると、折角《せつかく》おれを尋ねたが、いくら電鈴の鈕《ボタン》を押しても、誰|一人《ひとり》返事をしなかつたから、おれに会ふ事もやむを得ず断念をしたと書いてある。おれは昨夜《ゆうべ》あの混血児《あひのこ》の女が抛《はう》りこんだ、薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花を踏みながら、わざわざ玄関まで下りて行つて、電鈴の具合《ぐあひ》を調べて見た。すると知らない間《ま》に電鈴の針金が錆《さ》びたせゐか、誰かの悪戯《いたづら》か、二つに途中から切れてゐる。おれの心は重くなつた。おれがあの黄いろい窓掛の後《うしろ》に住んでゐる私窩子《しくわし》のやうな女を知らずにゐたら、おれの待ちに待つてゐた客の一人は、とうにこの電鈴の愉快な響を、おれの耳へ伝へたのに相違あるまい。
 おれは静に又二階へ行つて、窓際の肱掛椅子《ひぢかけいす》に腰を下した。
 夕方になると、又向うの家の二階の窓には、絹のキモノを着た女が現れて、下品な嬌態《けうたい》をつくりながら、慇懃《いんぎん》におれへ会釈《ゑしやく》をする。が、おれはもうその会釈には答へない。その代り人気《ひとげ》のない薄明りの往来《わうらい》を眺めながら、いつかはおれの戸口へ立つかも知れない遠来の客を待つてゐる。前のやうに寂しく。
[#地から1字上げ](大正八年二月)
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