て寒い。昨夜ぬいでおいたたびが今朝《けさ》はごそごそにこわばっている。手で石の角をつかむたんびに冷たさが毛糸の手袋をとおしてしみてくる。鼻のあたまがつめたくなって息がきれる。はっはっ言うたびに口から白い霧が出る。途中でふり向いて見ると谷底まで黒いものがつづいてその中途で白いまるいものと細長いものとが動いていた。「おおい」と呼ぶと下でも「おおい」と答える。小さい時に掘井戸の上から中をのぞきこんでおおいと言うとおおいと反響をしたのが思い出される。まるいのは市村の麦わら帽子、細長いのは中塚の浴衣《ゆかた》であった。黒いものは谷の底からなお上へのぼって馬の背のように空をかぎる。その中で頭の上の遠くに、菱《ひし》の花びらの半ばをとがったほうを上にしておいたような、貝塚から出る黒曜石の鏃《やじり》のような形をしたのが槍《やり》が岳《たけ》で、その左と右に歯朶《しだ》の葉のような高低をもって長くつづいたのが、信濃《しなの》と飛騨《ひだ》とを限る連山である。空はその上にうすい暗みを帯びた藍色《あいいろ》にすんで、星が大きく明らかに白毫《びゃくごう》のように輝いている。槍が岳とちょうど反対の側には月がまだ残っていた。七日ばかりの月で黄色い光がさびしかった。あたりはしんとしている。死のしずけさという思いが起ってくる。石をふみ落すとからからという音がしばらくきこえて、やがてまたもとの静けさに返ってしまう。路が偃松《はいまつ》の中へはいると、歩くたびに湿っぽい鈍い重い音ががさりがさりとする。ふいにギャアという声がした。おやと思うと案内者が「雷鳥です」と言った。形は見えない。ただやみの中から鋭い声をきいただけである。人をのろうのかもしれない。静かな、恐れをはらんだ絶嶺《ぜつれい》の大気を貫いて思わずもきいた雷鳥の声は、なんとなくあるシンボルでもあるような気がした。
[#地から2字上げ](明治四十四年ごろ)



底本:「羅生門・鼻・芋粥」角川文庫、角川書店
   1950(昭和25)年10月20日初版発行
   1985(昭和60)年11月10日改版38版発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月11日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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