既に事実になつてゐる。しかし第一の夢だけは――一以下省略。

        二 抒情詩人としての薄田泣菫氏

 昨年の或夜、予の或友人、――実は久保田万太郎氏は何人かの友人と話してゐる時に「ああ大和にしあらましかば」を暗誦し、数行の後に胴忘《どうわす》れをした。すると或年下の友人は恰《あだか》もそれを待つてゐたかのやうに、忽ちその先を暗誦したさうである。抒情詩人としての薄田泣菫氏の如何に一代を風靡したかはかう言ふ逸話にも明かであらう。しかし薄田氏の抒情詩は「ああ大和にしあらましかば」「望郷の歌」に至る前に夙《つと》に詩壇を動かしてゐる。予は「ゆく春」の世に出た時――二以下省略。

        三 先覚者としての薄田泣菫氏

 薄田泣菫氏を古典主義者としたのは勿論詩壇の喜劇である。成程薄田氏は余人よりも古語を用ひたのに違ひない。しかし古語を用ひた為に薄田氏を古典主義者と呼ぶならば、「海潮音」の訳者上田敏をもやはり古典主義者と呼ばなければならぬ。薄田氏の古語を用ひたのは必ずしも柿本人麿以来の古典的情緒を歌つたからではない。それよりも寧ろ予等の祖国に珍しい情緒を歌つたからである。詩壇はかう言ふ薄田氏に古典主義者の名を与へながら、しかも恬然と薄田氏の拓《ひら》いた一条の大道に従つて行つた。この大道はまつ直にラフアエル前派の峰を登り、象徴主義の原野へ通じてゐる。薄田氏は予言者モオゼのやうにその原野の土を踏まなかつたかも知れない。けれども確に眼底には「夕くれなゐの明らみに黄金の岸」を見てゐたのである。予は今度「白羊宮《はくやうきう》」を読み、更にこの感を――三以下省略。

      附録一 著作年表

(イ)人――薄田泣菫氏の明治三十年以来詩人、小説家、戯曲家等を作れるは枚挙すべからず。その主なるものは下の如し。(但しアイウエオ順)芥川龍之介。――(イ)以下省略。
(ロ)詩並びに散文。――明治二十九年或は三十年に雑誌「新著月刊」に「花密蔵難見」を発表す。明治三――(ロ)以下省略。

      附録二 著者年譜

(但し逆編年順)大正十四年二月、「泣菫詩集」を上梓す。発行所大阪毎日新聞社。――附録二以下省略。



底本:「芥川龍之介全集 第十二巻」岩波書店
   1996(平成8)年10月8日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:松永正敏
2002年5月17日作成
20
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング