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オルガンティノは翌日の夕《ゆうべ》も、南蛮寺《なんばんじ》の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼《へきがん》には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日|一日《いちにち》の内に、日本の侍が三四人、奉教人《ほうきょうにん》の列にはいったからだった。
庭の橄欖《かんらん》や月桂《げっけい》は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾《みだ》されるのは、寺の鳩《はと》が軒へ帰るらしい、中空《なかぞら》の羽音《はおと》よりほかはなかった。薔薇の匂《におい》、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子《おみなご》の美しきを見て、」妻を求めに降《くだ》って来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢《けが》らわしい日本の霊の力も、勝利を占《し》める事はむずかしいと見える。しかし昨夜《ゆうべ》見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人《しょうにん》にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主《てんしゅ》の御寺《みてら》が建てられるであろう。」
オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径《こみち》を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径《みち》を挟んだ篠懸《すずかけ》の若葉に、うっすりと漂《ただよ》っているだけだった。
「御主《おんあるじ》。守らせ給え!」
彼はこう呟《つぶや》いてから、徐《おもむ》ろに頭《かしら》をもとへ返した。と、彼の傍《かたわら》には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸《くび》に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐《おもむ》ろに歩みを運んでいた。
「誰だ、お前は?」
不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私《わたし》は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
老人は微笑《びしょう》を浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間《あいだ》、御話しするために出て来たのです。」
オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印《しるし》に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄《じごく》の炎《ほのお》に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文《じゅもん》なぞを唱えるのはおやめなさい。」
オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教《てんしゅきょう》を弘《ひろ》めに来ていますね、――」
老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須《デウス》もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須《デウス》は全能の御主《おんあるじ》だから、泥烏須に、――」
オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀《ていねい》な口調を使い出した。
「泥烏須《デウス》に勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須《デウス》ばかりではありません。孔子《こうし》、孟子《もうし》、荘子《そうし》、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉《ご》の国の絹だの秦《しん》の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙《れいみょう》な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字《もじ》を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿《かき》の本《もと》の人麻呂《ひとまろ》と云う詩人があります。その男の作った七夕《たなばた》の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女《けんぎゅうしょくじょ》はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽《あ》くまでも彦星《ひこぼし》と棚機津女《たなばたつめ》とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天《あま》の川《がわ》の瀬音《せおと》でした。支那の黄河《こうが》や揚子江《ようすこう》に似た、銀河《ぎんが》の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟《しゅう》と
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