仙人
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私《わたし》は今大阪にいます

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一時|逃《のが》れに

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(例)[#地から1字上げ](大正十一年三月)
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 皆さん。
 私《わたし》は今大阪にいます、ですから大阪の話をしましょう。
 昔、大阪の町へ奉公《ほうこう》に来た男がありました。名は何と云ったかわかりません。ただ飯炊奉公《めしたきぼうこう》に来た男ですから、権助《ごんすけ》とだけ伝わっています。
 権助は口入《くちい》れ屋《や》の暖簾《のれん》をくぐると、煙管《きせる》を啣《くわ》えていた番頭に、こう口の世話を頼みました。
「番頭さん。私は仙人《せんにん》になりたいのだから、そう云う所へ住みこませて下さい。」
 番頭は呆気《あっけ》にとられたように、しばらくは口も利《き》かずにいました。
「番頭さん。聞えませんか? 私は仙人になりたいのだから、そう云う所へ住みこませて下さい。」
「まことに御気の毒様ですが、――」
 番頭はやっといつもの通り、煙草《たばこ》をすぱすぱ吸い始めました。
「手前の店ではまだ一度も、仙人なぞの口入れは引き受けた事はありませんから、どうかほかへ御出《おい》でなすって下さい。」
 すると権助《ごんすけ》は不服《ふふく》そうに、千草《ちくさ》の股引《ももひき》の膝をすすめながら、こんな理窟《りくつ》を云い出しました。
「それはちと話が違うでしょう。御前さんの店の暖簾には、何と書いてあると御思いなさる? 万口入《よろずくちい》れ所《どころ》と書いてあるじゃありませんか? 万と云うからは何事でも、口入れをするのがほんとうです。それともお前さんの店では暖簾の上に、嘘《うそ》を書いて置いたつもりなのですか?」
 なるほどこう云われて見ると、権助が怒るのももっともです。
「いえ、暖簾に嘘がある次第ではありません。何でも仙人になれるような奉公口を探せとおっしゃるのなら、明日《あした》また御出で下さい。今日《きょう》中に心当りを尋ねて置いて見ますから。」
 番頭はとにかく一時|逃《のが》れに、権助の頼みを引き受けてやりました。が、どこへ奉公させたら、仙人になる修業が出来るか、もとよりそんな事なぞはわかるはずがありません。ですから一まず権助を返すと、早速《さっそく》番頭は近所にある医者の所へ出かけて行きました。そうして権助の事を話してから、
「いかがでしょう? 先生。仙人になる修業をするには、どこへ奉公するのが近路《ちかみち》でしょう?」と、心配そうに尋ねました。
 これには医者も困ったのでしょう。しばらくはぼんやり腕組みをしながら、庭の松ばかり眺めていました。が番頭の話を聞くと、直ぐに横から口を出したのは、古狐《ふるぎつね》と云う渾名《あだな》のある、狡猾《こうかつ》な医者の女房です。
「それはうちへおよこしよ。うちにいれば二三年|中《うち》には、きっと仙人にして見せるから。」
「左様《さよう》ですか? それは善い事を伺いました。では何分願います。どうも仙人と御医者様とは、どこか縁が近いような心もちが致して居りましたよ。」
 何も知らない番頭は、しきりに御時宜《おじぎ》を重ねながら、大喜びで帰りました。
 医者は苦い顔をしたまま、その後《あと》を見送っていましたが、やがて女房に向いながら、
「お前は何と云う莫迦《ばか》な事を云うのだ? もしその田舎者《いなかもの》が何年いても、一向《いっこう》仙術を教えてくれぬなぞと、不平でも云い出したら、どうする気だ?」と忌々《いまいま》しそうに小言《こごと》を云いました。
 しかし女房はあやまる所か、鼻の先でふふんと笑いながら、
「まあ、あなたは黙っていらっしゃい。あなたのように莫迦正直では、このせち辛《がら》い世の中に、御飯《ごはん》を食べる事も出来はしません。」と、あべこべに医者をやりこめるのです。
 さて明くる日になると約束通り、田舎者の権助は番頭と一しょにやって来ました。今日はさすがに権助《ごんすけ》も、初《はつ》の御目見えだと思ったせいか、紋附《もんつき》の羽織を着ていますが、見た所はただの百姓と少しも違った容子《ようす》はありません。それが返って案外だったのでしょう。医者はまるで天竺《てんじく》から来た麝香獣《じゃこうじゅう》でも見る時のように、じろじろその顔を眺めながら、
「お前は仙人になりたいのだそうだが、一体どう云う所から、そんな望みを起したのだ?」と、不審《ふしん》そうに尋ねました。すると権助が答えるには、
「別にこれと云う訣《わけ》もございませんが、ただあの大阪の御城を見たら、太閤様《たいこうさま》のように偉い人でも、
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