て行った。この地方の蒙った惨害の話から農家一般の困窮で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。
 すると、その話の途中で、老道士は、李の方へ、顔をむけた。皺の重なり合った中に、可笑《おか》しさをこらえているような、筋肉の緊張がある。
「あなたは私に同情して下さるらしいが、」こう云って、老人は堪《こら》えきれなくなったように、声をあげて笑った。烏が鳴くような、鋭い、しわがれた声で笑ったのである。「私は、金には不自由をしない人間でね、お望みなら、あなたのお暮し位はお助け申しても、よろしい。」
 李は、話の腰を折られたまま、呆然《ぼうぜん》として、ただ、道士の顔を見つめていた。(こいつは、気違いだ。)――やっとこう云う反省が起って来たのは、暫くの間|※[#「目+登」、第3水準1−88−91]目《とうもく》して、黙っていた後の事である。が、その反省は、すぐにまた老道士の次の話によって、打壊された。「千鎰《せんいつ》や二千鎰でよろしければ、今でもさし上げよう。実は、私は、ただの人間ではない。」老人は、それから、手短に、自分の経歴を話した。元は、何とか云う市《まち》の屠者《としゃ》だったが、偶々《たまたま》、呂祖《ろそ》に遇って、道を学んだと云うのである。それがすむと、道士は、徐《しずか》に立って、廟の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床の上の紙銭をかき集めた。
 李は五感を失った人のように、茫然として、廟の中へ這いこんだ。両手を鼠の糞と埃《ほこり》との多い床の上について、平伏するような形をしながら、首だけ上げて、下から道士の顔を眺めているのである。
 道士は、曲った腰を、苦しそうに、伸ばして、かき集めた紙銭を両手で床からすくい上げた。それから、それを掌《てのひら》でもみ合せながら、忙《せわ》しく足下へ撒きちらし始めた。鏘々然《そうそうぜん》として、床に落ちる黄白《こうはく》の音が、にわかに、廟外の寒雨《かんう》の声を圧して、起った。――撒かれた紙銭は、手を離れると共に、忽《たちま》ち、無数の金銭や銀銭に、変ったのである。………
 李小二は、この雨銭《うせん》の中に、いつまでも、床に這ったまま、ぼんやり老道士の顔を見上げていた。

          下

 李小二は、陶朱《とうしゅ》の富を得た。偶《たまたま》、その仙人に遇ったと云う事を疑う者があれば、彼は、その時、老人に書いて貰った、四句の語を出して示すのである。この話を、久しい以前に、何かの本で見た作者は、遺憾ながら、それを、文字通りに記憶していない。そこで、大意を支那のものを翻訳したらしい日本文で書いて、この話の完《おわ》りに附して置こうと思う。但し、これは、李小二が、何故、仙にして、乞丐《きっかい》をして歩くかと云う事を訊ねた、答なのだそうである。
「人生苦あり、以て楽むべし。人間死するあり、以て生くるを知る。死苦共に脱し得て甚だ、無聊《ぶりょう》なり。仙人は若《し》かず、凡人の死苦あるに。」
 恐らく、仙人は、人間の生活がなつかしくなって、わざわざ、苦しい事を、探してあるいていたのであろう。
[#地から1字上げ](大正四年七月二十三日)



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月6日公開
2004年3月9日修正
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