あらう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子《はしご》である。薄暗い空から叩《たた》きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……
37[#「37」は縦中横] 東方の人
ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死ぬまで健康を保たせるであらう。「東方の人」はこの「衛生学」を大抵|涅槃《ねはん》の上に立てようとした。老子は時々|無何有《むかいう》の郷に仏陀《ぶつだ》と挨拶をかはせてゐる。しかし我々は皮膚の色のやうにはつきりと東西を分《わか》つてゐない。クリストの、――或はクリストたちの一生の我々を動かすのはこの為である。「古来英雄の士、悉《ことごと》く山阿《さんあ》に帰す」の歌はいつも我々に伝はりつづけた。が、「天国は近づけり」の声もやはり我々を立たせずにはゐない。老子はそこに年少の孔子と、――或は支那のクリストと問答してゐる。野蛮な人生はクリストたちをいつも多少は苦しませるであらう。太平の艸木《さうもく》となることを願つた「東方の人」たちもこの例に洩れない。クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言つた。彼の言葉は恐らくは彼自身も意識しなかつた、恐しい事実を孕《はら》んでゐる。我々は狐や鳥になる外は容易に塒《ねぐら》の見つかるものではない。
[#地から2字上げ](昭和二年七月十日)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年4月27日公開
2004年3月7日修正
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