題が違って来る。ましてその首や首のない屍体《したい》を発見した事実になると、さっき君が云った通り、異説も決して少くない。そこも疑えば、疑える筈です。一方そう云う疑いがある所へ、君は今この汽車の中で西郷隆盛――と云いたくなければ、少くとも西郷隆盛に酷似《こくじ》している人間に遇《あ》った。それでも君には史料なるものの方が信ぜられますか。」
「しかしですね。西郷隆盛の屍体《したい》は確かにあったのでしょう。そうすると――」
「似ている人間は、天下にいくらもいます。右腕《みぎうで》に古い刀創《かたなきず》があるとか何とか云うのも一人に限った事ではない。君は狄青《てきせい》が濃智高《のんちこう》の屍《しかばね》を検した話を知っていますか。」
 本間さんは今度は正直に知らないと白状した。実はさっきから、相手の妙な論理と、いろいろな事をよく知っているのとに、悩まされて、追々この鼻眼鏡の前に一種の敬意に似たものを感じかかっていたのである。老紳士はこの間にポケットから、また例の瀬戸物のパイプを出して、ゆっくり埃及《エジプト》の煙をくゆらせながら、
「狄青が五十里を追うて、大理《だいり》に入《い》った時、敵の屍体を見ると、中に金竜《きんりゅう》の衣《い》を着ているものがある。衆は皆これを智高だと云ったが、狄青は独り聞かなかった。『安《いずく》んぞその詐《いつわ》りにあらざるを知らんや。むしろ智高を失うとも、敢て朝廷を誣《し》いて功を貪《むさぼ》らじ』これは道徳的に立派なばかりではない。真理に対する態度としても、望ましい語《ことば》でしょう。ところが遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これほど周密《しゅうみつ》な思慮を欠いていた。そこで歴史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換えてしまったのです。」
 愈《いよいよ》どうにも口が出せなくなった本間さんは、そこで苦しまぎれに、子供らしい最後の反駁《はんばく》を試みた。
「しかし、そんなによく似ている人間がいるでしょうか。」
 すると老紳士は、どう云う訳か、急に瀬戸物のパイプを口から離して、煙草の煙にむせながら、大きな声で笑い出した。その声があまり大きかったせいか、向うのテエブルにいた芸者がわざわざふり返って、怪訝《けげん》な顔をしながら、こっちを見た。が、老紳士は容易に、笑いやまない。片手に鼻眼鏡が落ちそうになるのをおさえながら、片手に火のついたパイプを持って、咽《のど》を鳴らし鳴らし、笑っている。本間さんは何だか訳がわからないので、白葡萄酒の杯を前に置いたまま、茫然とただ、相手の顔を眺めていた。
「それはいます。」老人はしばらくしてから、やっと息をつきながら、こう云った。
「今君が向うで居眠りをしているのを見たでしょう。あの男なぞは、あんなによく西郷隆盛に似ているではないですか。」
「ではあれは――あの人は何《なん》なのです。」
「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、傍《かたわら》南画を描《か》く男ですが。」
「西郷隆盛ではないのですね。」
 本間さんは真面目な声でこう云って、それから急に顔を赤らめた。今まで自分のつとめていた滑稽な役まわりが、この時|忽然《こつぜん》として新しい光に、照される事になったからである。
「もし気に障《さわ》ったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯《いたずら》をする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない。――僕はこう云う人間です。」
 老紳士はポケットをさぐって、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷ってはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顔をどこで見たか、やっと思い出す事が出来たのである。――老紳士は本間さんの顔を眺めながら、満足そうに微笑した。
「先生とは実際夢にも思いませんでした。私こそいろいろ失礼な事を申し上げて、恐縮です。」
「いやさっきの城山戦死説なぞは、なかなか傑作だった。君の卒業論文もああ云う調子なら面白いものが出来るでしょう。僕の方の大学にも、今年は一人維新史を専攻した学生がいる。――まあそんな事より、大《おおい》に一つ飲み給え。」
 霙《みぞれ》まじりの雨も、小止《こや》みになったと見えて、もう窓に音がしなくなった。女連れの客が立った後には、硝子の花瓶にさした菜《な》の花ばかりが、冴え返る食堂車の中にかすかな匂を漂わせている。本間さんは白葡萄酒の杯を勢いよく飲み干すと、色の出た頬をおさえながら、突然、
「先生はスケプティックですね。」と云った。
 老紳士は鼻眼鏡の後《うしろ》から、眼でちょいと頷いた。あの始終何かに微笑を送っているような朗然とした眼で頷いたのである。
「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない、いやそう云う我々自身の事さえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。僕は若い時に、小説家になろうと思った事があった。なったらやっぱり、そう云う小説を書いていたでしょう。あるいはその方が今よりよかったかも知れない。とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか。」
[#地から1字上げ](大正六年十二月十五日)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月9日修正
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