笥を、貝殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞《ゑぼんぼり》を、色糸の手鞠《てまり》を、さうして又父の横顔を、……
夢かと思ふと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんたうにあの晩の雛は夢だつたのでございませうか? 一図《いちづ》に雛を見たがつた余り、知らず識らず造り出した幻ではなかつたのでございませうか? わたしは未《いまだ》にどうかすると、わたし自身にもほんたうかどうか、返答に困るのでございます。
しかしわたしはあの夜更けに、独り雛を眺めてゐる、年とつた父を見かけました。これだけは確かでございます。さうすればたとひ夢にしても、別段悔やしいとは思ひません。兎に角わたしは眼《ま》のあたりに、わたしと少しも変らない父を見たのでございますから、女々《めめ》しい、……その癖おごそかな父を見たのでございますから。
「雛」の話を書きかけたのは何年か前のことである。それを今書き上げたのは滝田氏の勧めによるのみではない。同時に又四五日前、横浜の或|英吉利《イギリス》人の客間に、古雛の首を玩具《おもちや》にしてゐる紅毛の童女に遇つたからである。今はこの話に出て来る雛も、鉛の兵隊やゴムの人形と一つ玩具箱《おもちやばこ》に投げこまれながら、同じ憂きめを見てゐるのかも知れない。
[#地から2字上げ](大正十二年二月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:福地博文
1998年11月7日公開
2004年3月16日修正
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