当時の諸式にすると、ずゐぶん高価には違ひございません。
その内に雛を手放す日はだんだん近づいて参りました。わたしは前にも申しました通り、格別それを悲しいとは思はなかつたものでございます。ところが一日一日と約束の日が迫つて来ると、何時か雛と別れるのはつらいやうに思ひ出しました。しかし如何《いか》に子供とは申せ、一旦手放すときまつた雛を手放さずにすまうとは思ひません。唯人手に渡す前に、もう一度よく見て置きたい。内裏雛《だいりびな》、五人|囃《ばや》し、左近《さこん》の桜、右近《うこん》の橘《たちばな》、雪洞《ぼんぼり》、屏風《びやうぶ》、蒔絵《まきゑ》の道具、――もう一度この土蔵の中にさう云ふ物を飾つて見たい、――と申すのが心願でございました。が、性来一徹な父は何度わたしにせがまれても、これだけのことを許しません。「一度手附けをとつたとなりやあ、何処にあらうが人様のものだ。人様のものはいぢるもんぢやあない。」――かう申すのでございます。
するともう月末に近い、大風の吹いた日でございます。母は風邪に罹《かか》つたせゐか、それとも又|下唇《したくちびる》に出来た粟粒《あはつぶ》程の腫物《はれもの》のせゐか、気持が悪いと申したぎり、朝の御飯も頂きません。わたしと台所を片づけた後は片手に額を抑へながら、唯ぢつと長火鉢の前に俯向《うつむ》いてゐるのでございます。ところが彼是《かれこれ》お午《ひる》時分、ふと顔を擡《もた》げたのを見ると、腫物のあつた下唇だけ、丁度赤いお薩[#「お薩」に傍点]のやうに脹《は》れ上つてゐるではございませんか? しかも熱の高いことは妙に輝いた眼の色だけでも、直《すぐ》とわかるのでございます。これを見たわたしの驚きは申す迄もございません。わたしは殆ど無我夢中に、父のゐる見世へ飛んで行きました。
「お父さん! お父さん! お母さんが大変ですよ。」
父は、……それから其処にゐた兄も父と一しよに奥へ来ました。が、恐しい母の顔には呆気《あつけ》にとられたのでございませう。ふだんは物に騒がぬ父さへ、この時だけは茫然としたなり、口も少時《しばらく》は利かずに居りました。しかし母はさう云ふ中にも、一生懸命に微笑しながら、こんなことを申すのでございます。
「何、大したことはありますまい。唯ちよいとこのお出来に爪をかけただけなのですから、……今御飯の支度をします。」
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