笑らしいものさへ浮べながら。
その晩も皆休んだのは十一時過ぎでございます。しかしわたしは眼をつぶつても、容易に寝つくことが出来ません。兄はわたしに雛のことは二度と云ふなと申しました。わたしも雛を出して見るのは出来ない相談とあきらめて居ります。が、出して見たいことはさつきと少しも変りません。雛は明日になつたが最後、遠いところへ行つてしまふ、――さう思へばつぶつた眼の中にも、自然と涙がたまつて来ます。一そみんなの寝てゐる中に、そつと一人出して見ようか?――さうもわたしは考へて見ました。それともあの中の一つだけ、何処か外へ隠して置かうか?――さうも亦わたしは考へて見ました。しかしどちらも見つかつたら、――と思ふとさすがにひるんでしまひます。わたしは正直にその晩位、いろいろ恐しいことばかり考へた覚えはございません。今夜もう一度火事があれば好《い》い。さうすれば人手に渡らぬ前に、すつかり雛も焼けてしまふ。さもなければ亜米利加人も頭の禿げた丸佐の主人もコレラになつてしまへば好い。さうすれば雛は何処へもやらずに、この儘《まま》大事にすることが出来る。――そんな空想も浮んで参ります。が、まだ何と申しても、其処は子供でございますから、一時間たつかたたない中に、何時かうとうと眠つてしまひました。
それからどの位たちましたか、ふと眠りがさめて見ますと、薄暗い行燈《あんどう》をともした土蔵に誰か人の起きてゐるらしい物音が聞えるのでございます。鼠かしら、泥坊かしら、又はもう夜明けになつたのかしら?――わたしはどちらかと迷ひながら、怯《お》づ怯づ細眼を明いて見ました。するとわたしの枕もとには、寝間着の儘の父が一人、こちらへ横顔を向けながら、坐つてゐるのでございます。父が!……しかしわたしを驚かせたのは父ばかりではございません。父の前にはわたしの雛が、――お節句以来見なかつた雛が並べ立ててあるのでございます。
夢かと思ふと申すのはああ云ふ時でございませう。わたしは殆ど息もつかずに、この不思議を見守りました。覚束《おぼつか》ない行燈の光の中に、象牙の笏《しやく》をかまへた男雛《をびな》を、冠の瓔珞《やうらく》を垂れた女雛《めびな》を、右近の橘《たちばな》を、左近の桜を、柄《え》の長い日傘を担《かつ》いだ仕丁《しちやう》を、眼八分に高坏《たかつき》を捧げた官女を、小さい蒔絵《まきゑ》の鏡台や箪
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