、今度は苦しさうに言葉を継ぎました。
「わたしはこの通りの体だしね、何も彼《か》もお父さんがなさるのだから、おとなしくしなけりやあいけませんよ。そりやあお隣の娘さんは芝居へも始終お出でなさるさ。……」
「芝居なんぞ見たくはないんだけれど……」
「いえ、芝居に限らずさ、簪《かんざし》だとか半襟《はんえり》だとか、お前にやあ欲しいものだらけでもね、……」
 わたしはそれを聞いてゐる中に、悔やしいのだか悲しいのだか、とうとう涙をこぼしてしまひました。
「あのねえ、お母さん。……わたしはねえ、……何も欲しいものはないんだけれどねえ、唯あのお雛様を売る前にねえ、……」
「お雛様かえ? お雛様を売る前に?」
 母は一層大きい眼にわたしの顔を見つめました。
「お雛様を売る前にねえ、……」
 わたしはちよいと云ひ渋りました。その途端にふと気がついて見ると、何時の間にか後ろに立つてゐるのは兄の英吉でございます。兄はわたしを見下しながら、不相変《あひかはらず》慳貪《けんどん》にかう申しました。
「わからず屋! 又お雛様のことだらう? お父さんに叱られたのを忘れたのか?」
「まあ、好《い》いぢやあないか? そんなにがみがみ云はないでも。」
 母はうるささうに眼を閉ぢました。が、兄はそれも聞えぬやうに叱り続けるのでございます。
「十五にもなつてゐる癖に、ちつとは理窟もわかりさうなもんだ? 高があんなお雛様位! 惜しがりなんぞするやつがあるもんか?」
「お世話焼きぢや! 兄さんのお雛様ぢやあないぢやあないか?」
 わたしも負けずに云ひ返しました。その先は何時も同じでございます。二言三言云ひ合ふ中に、兄はわたしの襟上《えりがみ》を掴《つか》むと、いきなり其処へ引き倒しました。
「お転婆!」
 兄は母さへ止めなければ、この時もきつと二つ三つは折檻《せつかん》して居つたでございませう。が、母は枕の上に半ば頭を擡《もた》げながら、喘《あへ》ぎ喘ぎ兄を叱りました。
「お鶴が何をしやあしまいし、そんな目に遇はせるにやあ当らないぢやあないか。」
「だつてこいつはいくら云つても、あんまり聞き分けがないんですもの。」
「いいえ、お鶴ばかり憎いのぢやあないだらう? お前は……お前は、……」
 母は涙をためた儘、悔やしさうに何度も口ごもりました。
「お前はわたしが憎いのだらう? さもなけりやあわたしが病気だと云ふ
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