あの砂だらけの床板に額をつけて、「ありがとう」と言われた時には、思わず、ほろりとさせられてしまった。
慰問会がおわるとすぐに、事務室で通信部を開始する。手紙を書けない人々のために書いてあげる設備である。原君と小野君と僕とが同じ机で書く。あの事務室の廊下に面した、ガラス障子《しょうじ》をはずして、中へ図書室の細長い机と、講堂にあるベンチとを持ちこんで、それに三人で尻《しり》をすえたのである。外の壁へは、高田先生に書いていただいた、「ただで、手紙を書いてあげます」という貼紙《はりがみ》をしたので、直ちに多くの人々がこの窓の外に群がった。いよいよはがきに鉛筆を走らせるまでには、どうにか文句ができるだろうくらいな、おうちゃくな根性ですましていたが、こうなってみると、いくら「候間」や「候段」や「乍憚《はばかりながら》御休神下され度」でこじつけていっても、どうにもこうにも、いかなくなってきた。二、三人目に僕の所へ来たおじいさんだったが、聞いてみると、なんでも小松川のなんとか病院の会計の叔父《おじ》の妹の娘が、そのおじいさんの姉の倅《せがれ》の嫁の里の分家の次男にかたづいていて、小松川の水が出たから、そのおじいさんの姉の倅の嫁の里の分家の次男の里でも、昔から世話になった主人の倅が持っている水車小屋へ、どうとかしたところが、その病院の会計の叔父の妹がどうとかしたから、見合わせてそのじいの倅の友だちの叔父の神田の猿楽町《さるがくちょう》に錠前なおしの家へどうとかしたとか、なんとか言うので、何度聞き直しても、八幡《やわた》の藪《やぶ》でも歩いているように、さっぱり要領が得られないので弱っちまった。いまだに、あの時のことを考えると、はがきへどんなことを書いたんだか、いっこう判然しない。これは原君の所へ来た、おばあさんだが、原君が「宛名《あてな》は」ときくと、平五郎さんだとかなんとか言う。「苗字《みょうじ》はなんというんです」と押返して尋ねると、苗字は知らないが平五郎さんで、平五郎さんていえば近所じゅうどこでも知ってるから、苗字なんかなくっても、とどくのに違いないと保証する。さすがの原君も、「ただ平五郎さんじゃあ、とどきますまい」って、恐縮していたが、とうとうさじを投げて、なんとか町なんとか番地平五郎殿と書いてしまった。あれでうまく、平五郎さんの家へとどいたら、いくら平五郎さんでも、よくとどいたもんだと感心するにちがいない。
ことにこっけいなのは、誰の所へ来たんだか忘れたが、宛名に「しようせんじ、のだやすつてん」というやつがあって、誰も漢字に翻訳することができなかった。それでも結局「修善寺野田屋支店」だろうということになったが、こんな和文漢訳の問題が出ればどこの学校の受験者だって落第するにきまっている。
通信部は、日暮れ近くなって閉じた。あのいつもの銀行員が来て月謝を取扱う小さな窓のほうでも、上原君や岩佐君やその他の卒業生諸君が、執筆の労をとってくださった。そうしてこっちも、かれこれ同じ時刻に窓を閉じた。僕たちの帰った時には、あたりがもう薄暗かった。二階の窓からは、淡い火影がさして、白楊《はくよう》の枝から枝にかけてあった洗たく物も、もうすっかり取りこまれていた。
通信部はそれからも、つづいて開いた。前記の諸君を除いて、平塚君、国富君、砂岡君、清水君、依田君、七条君、下村君、その他今は僕が忘れてしまって、ここに表彰する光栄を失したのを悲しむ。幾多の諸君が、熱心に執筆の労をとってくださったのは、特に付記して、前後六百枚のはがきの、このために費されたのが、けっして偶然でないということを表したいと思う。
その翌々日の午後、義捐金《ぎえんきん》の一部をさいてあがなった、四百余の猿股《さるまた》を罹災民諸君に寄贈することになった。皆で、猿股の一ダースを入れた箱を一つずつ持って、部屋部屋を回って歩く。ジプシーのような、脊の低い区役所の吏員が、帳面と引合わせて、一人一人罹災民諸君を呼び出すのを、僕たちが一枚一枚、猿股を渡すという手はずであった。残念なことに、どの部屋で、どんな人がどんなことをしていたか忘れてしまったがただ一つ覚えているのは、五年の丙組の教室へはいった時だったと思う。薄暗いすみっこに、色のさめた、黒い太い縞《しま》のある、青毛布が丸くなっていた。始めは、ただ毛布が丸めてあるんだと思ったが、例のジプシーが名まえを呼びはじめると、その毛布がむくむくと動いて、中から灰色の長い髯《ひげ》が出た。それから、眼の濁った赭《あか》ら面の老人が出た。そうして最後に、灰色の長く伸びた髪の毛が出た。しばらく僕たちを見ていたがまた眼をつぶった。かたわらへよると酒の香がする。なんとなく、あの毛布の下に、ウォッカの罎《びん》でも隠してありそうな気がした。
二
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング