階の部屋をまわった平塚君の話では、五年の甲組の教室に狂女がいて、じっとバケツの水を見つめていたそうだ。あの雨じみのある鼠色の壁によりかかって、結び髪の女が、すりきれた毛繻子《けじゅす》の帯の間に手を入れながら、うつむいてバケツの水を見ている姿を想像したら、やはり小説めいた感じがした。
猿股を配ってしまった時、前田侯から大きな梅鉢《うめばち》の紋のある長持へ入れた寄付品がたくさん来た。落雁《らくがん》かと思ったら、シャツと腹巻なのだそうである。前田侯だけに、やることが大きいなあと思う。
罹災民諸君が何日ぶりかで、諸君の家へ帰られる日の午前に、僕たちは、僕たちの集めた義捐金の残額を投じて、諸君のために福引を行うことにした。
景品はその前夜に註文《ちゅうもん》した。当日の朝、僕が学校の事務室へ行った時には、もう僕たちの連中が、大ぜい集って、盛んに籤《くじ》をこしらえていた。うまく紙撚《こより》をよれる人が少いので、広瀬先生や正木先生が、手伝ってくださる。僕たちの中では、砂岡君がうまく撚《よ》る。僕は「へえ、器用だね」と、感心して見ていた。もちろん僕には撚れない。
事務室の中には、いろんな品物がうずたかく積んであった。前の晩、これを買う時に小野君が、口をきわめて、その効用を保証した亀《かめ》の子だわしもある。味噌漉《みそこし》の代理が勤まるというなんとか笊《ざる》もある。羊羹《ようかん》のミイラのような洗たくせっけんもある。草ぼうきもあれば杓子《しゃくし》もある。下駄《げた》もあれば庖刀《ほうとう》もある。赤いべべを着たお人形さんや、ロッペン島のあざらしのような顔をした土細工の犬やいろんなおもちゃもあったが、その中に、五、六本、ブリキの銀笛があったのは蓋《けだ》し、原君の推奨によって買ったものらしい。景品の説明は、いいかげんにしてやめるが、もう一つ書きたいのは、黄色い、能代塗《のしろぬり》の箸《はし》である。それが何百|膳《ぜん》だかこてこてある。あとで何膳ずつかに分ける段になると、その漆臭いにおいが、いつまでも手に残ったので閉口した。ちょっと嗅《か》いでも胸が悪くなる。福引の景品に、能代塗の箸は、孫子の代まで禁物だと、しみじみ悟ったのはこの時である。
籤ができあがると、原君と依田君とが、各室をまわる労をとった。少したつと、もう大ぜい籤を持った人々がやってくる。
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