つ》そうにちらりと姉へ微笑を送った。広子はこの微笑の中に突然|一人前《いちにんまえ》の女を捉《とら》えた。もっともこれは東京駅へ出迎えた妹を見た時から、時々意識へ上《のぼ》ることだった。けれどもまだ今のように、はっきり焦点の合ったことはなかった。広子はその意識と共にたちまち篤介との関係にも多少の疑惑を抱き出した。
「あなたもそこへ行ったことがあるの?」
「ええ、たびたび行ったことがあるわ。」
 広子の聯想《れんそう》は結婚前のある夜《よ》の記憶を呼び起した。母はその夜《よ》風呂《ふろ》にはいりながら、彼女に日どりのきまったことを話した。それから常談《じょうだん》とも真面目《まじめ》ともつかずに体の具合《ぐあい》を尋ねたりした。生憎《あいにく》その夜の母のように淡白な態度に出られなかった彼女は、今もただじっと妹の顔を見守るよりほかに仕かたはなかった。しかし辰子は不相変《あいかわらず》落ち着いた微笑を浮べながら、眩《まぶ》しそうに黄色い電燈の笠へ目をやっているばかりだった。
「そんなことをしてもかまわないの?」
「大村が?」
「いいえ、あなたがよ。誤解でもされたら、迷惑じゃなくって?」
「どうせ誤解はされ通しよ。何しろ研究所の連中と来たら、そりゃ口がうるさいんですもの。」
 広子はちょっと苛立《いらだ》たしさを感じた。のみならず取り澄ました妹の態度も芝居ではないかと言う猜疑《さいぎ》さえ生じた。すると辰子は弄《もてあそ》んでいた羽織の紐《ひも》を投げるようにするなり、突然こう言う問《とい》を発した。
「母《かあ》さんは許して下さるでしょうか?」
 広子はもう一度|苛立《いらだ》たしさを感じた。それは恬然《てんぜん》と切りこんで来る妹に対する苛立たしさでもあれば、だんだん受太刀《うけだち》になって来る彼女自身に対する苛立たしさでもあった。彼女は篤介の油画へ浮かない目を遊ばせたまま「そうねえ」と煮《に》え切らない返事をした。
「姉さんから話していただけない?」
 辰子はやや甘えるように広子の視線を捉《とら》えようとした。
「わたしから話すったって、――わたしもあなたたちのことは知らないじゃないの?」
「だから聞いて頂戴《ちょうだい》って言っているのよ。それをちっとも姉さんは聞く気になってくれないんですもの。」
 広子はこの話のはじまった時、辰子のしばらく沈黙したのを話し悪《にく》いためと解釈した。が、今になって見ると、その沈黙は話し悪いよりも、むしろ話したさをこらえながら、姉の勧《すす》めるのを待っていたのだった。広子は勿論|後《うし》ろめたい気がした。
 しかしまた咄嗟《とっさ》に妹の言葉を利用することも忘れなかった。
「あら、あなたこそ話さないんじゃないの?――じゃすっかり聞かせて頂戴。その上でわたしも考えて見るから。」
「そう? じゃとにかく話して見るわ。その代りひやかしたり何かしちゃ厭《いや》よ。」
 辰子はまともに姉の顔を見たまま、彼女の恋愛問題を話し出した。広子は小首《こくび》を傾けながら、時々返事をする代りに静かな点頭《てんとう》を送っていた。が、内心はこの間も絶えず二つの問題を解決しようとあせっていた。その一つは彼等の恋愛の何のために生じたかと言うことであり、もう一つは彼等の関係のどのくらい進んでいるかと言うことだった。しかし正直な妹の話もほとんど第一の問題には何の解決も与えなかった。辰子はただ篤介と毎日顔を合せているうちにいつか彼と懇意《こんい》になり、いつかまた彼を愛したのだった。のみならず第二の問題もやはり判然とはわからなかった。辰子は他人の身の上のように彼の求婚した時のことを話した。しかもそれは抒情詩《じょじょうし》よりもむしろ喜劇に近いものだった。――
「大村は電話で求婚したの。可笑《おか》しいでしょう? 何《なん》でも画《え》に失敗して、畳の上にころがっていたら、急にそんな気になったんですって。だっていきなりどうだって言ったって、返事に困ってしまうじゃないの? おまけにその時は電話室の外へ母《かあ》さんも探《さが》しものに来ているんでしょう? わたし、仕かたがなかったから、ただウイ、ウイって言って置いたの。……」
 それから?――それから先も妹の話は軽快に事件を追って行った。彼等は一しょに展覧会を見たり、植物園へ写生に行ったり、ある独逸《ドイツ》のピアニストを聴《き》いたりしていた。が、彼等の関係は辰子の言葉を信用すれば、友だち以上に出ないものだった。広子はそれでも油断せずに妹の顔色を窺《うかが》ったり、話の裏を考えたり、一二度は鎌《かま》さえかけて見たりした。しかし辰子は電燈の光に落ち着いた瞳《ひとみ》を澄《す》ませたまま、少しも臆《おく》した色を見せないのだった。
「まあ、ざっとこう言う始末《しまつ》なの。――ああ、それから姉さんにわたしから手紙を上げたことね、あのことは大村にも話して置いたの。」
 広子は妹の話し終った時、勿論|歯痒《はがゆ》いもの足らなさを感じた。けれども一通《ひととお》り打ち明けられて見ると、これ以上第二の問題には深入り出来ないのに違いなかった。彼女はそのためにやむを得ず第一の問題に縋《すが》りついた。
「だってあなたはあの人は大嫌《だいきら》いだって言っていたじゃないの?」
 広子はいつか声の中にはいった挑戦《ちょうせん》の調子を意識していた。が、辰子はこの問にさえ笑顔《えがお》を見せたばかりだった。
「大村もわたしは大嫌いだったんですって。ジン・コクテルくらいは飲みそうな気がしたんですって。」
「そんなものを飲む人がいるの?」
「そりゃいるわ。男のように胡坐《あぐら》をかいて花を引く人もいるんですもの。」
「それがあなたがたの新時代?」
「かも知れないと思っているの。……」
 辰子は姉の予想したよりも遥《はる》かに真面目《まじめ》に返事をした。と思うとたちまち微笑《びしょう》と一しょにもう一度|話頭《わとう》を引き戻した。
「それよりもわたしの問題だわね、姉さんから話していただけない?」
「そりゃ話して上げないこともないわ。上げないこともないけれども、――」
 広子はあらゆる姉のように忠告の言葉を加えようとした。すると辰子はそれよりも先にこう話を截断《せつだん》した。
「とにかく大村を知らないじゃね。――じゃ姉さん、二三日|中《うち》に大村に会っちゃ下さらない? 大村も喜んでお目にかかると思うの。」
 広子はこの話頭の変化に思わず大村の油画を眺めた。藤の花は苔《こけ》ばんだ木々の間になぜか前よりもほのぼのとしていた。彼女は一瞬間心の中に昔の「猿《さる》」を髣髴《ほうふつ》しながら、曖昧《あいまい》に「そうねえ」を繰《く》り返した。が、辰子は「そうねえ」くらいに満足する気色《けしき》も見せなかった。
「じゃ会って下さるわね。大村の下宿へ行って下さる?」
「だって下宿へも行《い》かれないじゃないの?」
「じゃここへ来て貰《もら》いましょうか? それも何《なん》だか可笑《おか》しいわね。」
「あの人は前にも来たことはあるの?」
「いいえ、まだ一度もないの。それだから何だか可笑しいのよ。じゃあと、――じゃこうして下さらない? 大村は明後日《あさって》表慶館《ひょうけいかん》へ画を見に行《ゆ》くことになっているの。その時刻に姉さんも表慶館へ行って大村に会っちゃ下さらない?」
「そうねえ、わたしも明後日ならば、ちょうどお墓参りをする次手《ついで》もあるし。……」
 広子はうっかりこう言った後《のち》、たちまち軽率《けいそつ》を後悔した。けれども辰子はその時にはもう別人《べつじん》かと思うくらい、顔中に喜びを漲《みなぎ》らせていた。
「そうお? じゃそうして頂戴《ちょうだい》。大村へはわたしから電話をかけて置くわ。」
 広子は妹の顔を見るなり、いつか完全に妹の意志の凱歌《がいか》を挙げていたことを発見した。この発見は彼女の義務心よりも彼女の自尊心にこたえるものだった。彼女は最後にもう一度妹の喜びに乗じながら、彼等の秘密へ切りこもうとした。が、辰子はその途端《とたん》に、――姉の唇《くちびる》の動こうとした途端に突然体を伸べるが早いか、白粉《おしろい》を刷《は》いた広子の頬《ほお》へ音の高いキスを贈った。広子は妹のキスを受けた記憶をほとんど持ち合せていなかった。もし一度でもあったとすれば、それはまだ辰子の幼稚園《ようちえん》へ通っていた時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろ羞《はずか》しさを感じた。このショックは勿論|浪《なみ》のように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女は半《なか》ば微笑した目にわざと妹を睨《にら》めるほかはなかった。
「いやよ。何をするの?」
「だってほんとうに嬉しいんですもの。」
 辰子は円卓《えんたく》の上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔を赫《かがや》かせていた。
「けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためには何《なん》でもして下さるのに違いないって。――実は昨日《きのう》も大村と一日《いちんち》姉さんの話をしたの。それでね、……」
「それで?」
 辰子はちょっと目の中に悪戯《いたずら》っ児《こ》らしい閃《ひらめ》きを宿した。
「それでもうおしまいだわ。」

        三

 広子《ひろこ》は化粧道具や何かを入れた銀細具《ぎんざいく》のバッグを下げたまま、何年《なんねん》にもほとんど来たことのない表慶館《ひょうけいかん》の廊下《ろうか》を歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着きの底に多少の遊戯心《ゆうぎしん》を意識していた。数年前の彼女だったとすれば、それはあるいは後《うしろ》めたい意識だったかも知れなかった。が、今は後めたいよりもむしろ誇らしいくらいだった。彼女はいつか肥《ふと》り出した彼女の肉体を感じながら、明るい廊下の突き当りにある螺旋状《らせんじょう》の階段を登って行った。
 螺旋状の階段を登りつめた所は昼も薄暗い第一室だった。彼女はその薄暗い中に青貝《あおがい》を鏤《ちりば》めた古代の楽器《がっき》や古代の屏風《びょうぶ》を発見した。が、肝腎《かんじん》の篤介《あつすけ》の姿は生憎《あいにく》この部屋には見当らなかった。広子はちょっと陳列棚の硝子《ガラス》に彼女の髪形《かみかたち》を映して見た後《のち》、やはり格別急ぎもせずに隣《となり》の第二室へ足を向けた。
 第二室は天井《てんじょう》から明りを取った、横よりも竪《たて》の長い部屋だった。そのまた長い部屋の両側を硝子《ガラス》越しに埋《うず》めているのは藤原《ふじわら》とか鎌倉《かまくら》とか言うらしい、もの寂《さ》びた仏画ばかりだった。篤介は今日《きょう》も制服の上に狐色《きつねいろ》になったクレヴァア・ネットをひっかけ、この伽藍《がらん》に似た部屋の中をぶらぶら一人《ひとり》歩いていた。広子は彼の姿を見た時、咄嗟《とっさ》に敵意の起るのを感じた。しかしそれは掛け値なしにほんの咄嗟の出来事だった。彼はもうその時にはまともにこちらを眺めていた。広子は彼の顔や態度にたちまち昔の「猿」を感じた。同時にまた気安い軽蔑《けいべつ》を感じた。彼はこちらを眺めたなり、礼をしたものかしないものか判断に迷っているらしかった。その妙に落ち着かない容子《ようす》は確かに恋愛だのロマンスだのと縁の遠いものに違いなかった。広子は目だけ微笑しながら、こう言う妹の恋人の前へ心もち足早《あしばや》に歩いて行った。
「大村《おおむら》さんでいらっしゃいますわね? わたしは――御存知《ごぞんじ》でございましょう?」
 篤介はただ「ええ」と答えた。彼女はこの「ええ」の中にはっきり彼の狼狽《ろうばい》を感じた。のみならずこの一瞬間に彼の段鼻《だんばな》だの、金歯《きんば》だの、左の揉《も》み上《あ》げの剃刀傷《かみそりきず》だの、ズボンの膝《ひざ》のたるんでいることだの、――そのほか一々数えるにも足らぬ無数の事
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