て》表慶館《ひょうけいかん》へ画を見に行《ゆ》くことになっているの。その時刻に姉さんも表慶館へ行って大村に会っちゃ下さらない?」
「そうねえ、わたしも明後日ならば、ちょうどお墓参りをする次手《ついで》もあるし。……」
 広子はうっかりこう言った後《のち》、たちまち軽率《けいそつ》を後悔した。けれども辰子はその時にはもう別人《べつじん》かと思うくらい、顔中に喜びを漲《みなぎ》らせていた。
「そうお? じゃそうして頂戴《ちょうだい》。大村へはわたしから電話をかけて置くわ。」
 広子は妹の顔を見るなり、いつか完全に妹の意志の凱歌《がいか》を挙げていたことを発見した。この発見は彼女の義務心よりも彼女の自尊心にこたえるものだった。彼女は最後にもう一度妹の喜びに乗じながら、彼等の秘密へ切りこもうとした。が、辰子はその途端《とたん》に、――姉の唇《くちびる》の動こうとした途端に突然体を伸べるが早いか、白粉《おしろい》を刷《は》いた広子の頬《ほお》へ音の高いキスを贈った。広子は妹のキスを受けた記憶をほとんど持ち合せていなかった。もし一度でもあったとすれば、それはまだ辰子の幼稚園《ようちえん》へ通っていた時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろ羞《はずか》しさを感じた。このショックは勿論|浪《なみ》のように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女は半《なか》ば微笑した目にわざと妹を睨《にら》めるほかはなかった。
「いやよ。何をするの?」
「だってほんとうに嬉しいんですもの。」
 辰子は円卓《えんたく》の上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔を赫《かがや》かせていた。
「けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためには何《なん》でもして下さるのに違いないって。――実は昨日《きのう》も大村と一日《いちんち》姉さんの話をしたの。それでね、……」
「それで?」
 辰子はちょっと目の中に悪戯《いたずら》っ児《こ》らしい閃《ひらめ》きを宿した。
「それでもうおしまいだわ。」

        三

 広子《ひろこ》は化粧道具や何かを入れた銀細具《ぎんざいく》のバッグを下げたまま、何年《なんねん》にもほとんど来たことのない表慶館《ひょうけいかん》の廊下《ろうか》を歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着きの底に多少の遊戯心《ゆうぎしん》を意識していた。数年前の彼女だったとすれば、それはあるいは後《うしろ》めたい意識だったかも知れなかった。が、今は後めたいよりもむしろ誇らしいくらいだった。彼女はいつか肥《ふと》り出した彼女の肉体を感じながら、明るい廊下の突き当りにある螺旋状《らせんじょう》の階段を登って行った。
 螺旋状の階段を登りつめた所は昼も薄暗い第一室だった。彼女はその薄暗い中に青貝《あおがい》を鏤《ちりば》めた古代の楽器《がっき》や古代の屏風《びょうぶ》を発見した。が、肝腎《かんじん》の篤介《あつすけ》の姿は生憎《あいにく》この部屋には見当らなかった。広子はちょっと陳列棚の硝子《ガラス》に彼女の髪形《かみかたち》を映して見た後《のち》、やはり格別急ぎもせずに隣《となり》の第二室へ足を向けた。
 第二室は天井《てんじょう》から明りを取った、横よりも竪《たて》の長い部屋だった。そのまた長い部屋の両側を硝子《ガラス》越しに埋《うず》めているのは藤原《ふじわら》とか鎌倉《かまくら》とか言うらしい、もの寂《さ》びた仏画ばかりだった。篤介は今日《きょう》も制服の上に狐色《きつねいろ》になったクレヴァア・ネットをひっかけ、この伽藍《がらん》に似た部屋の中をぶらぶら一人《ひとり》歩いていた。広子は彼の姿を見た時、咄嗟《とっさ》に敵意の起るのを感じた。しかしそれは掛け値なしにほんの咄嗟の出来事だった。彼はもうその時にはまともにこちらを眺めていた。広子は彼の顔や態度にたちまち昔の「猿」を感じた。同時にまた気安い軽蔑《けいべつ》を感じた。彼はこちらを眺めたなり、礼をしたものかしないものか判断に迷っているらしかった。その妙に落ち着かない容子《ようす》は確かに恋愛だのロマンスだのと縁の遠いものに違いなかった。広子は目だけ微笑しながら、こう言う妹の恋人の前へ心もち足早《あしばや》に歩いて行った。
「大村《おおむら》さんでいらっしゃいますわね? わたしは――御存知《ごぞんじ》でございましょう?」
 篤介はただ「ええ」と答えた。彼女はこの「ええ」の中にはっきり彼の狼狽《ろうばい》を感じた。のみならずこの一瞬間に彼の段鼻《だんばな》だの、金歯《きんば》だの、左の揉《も》み上《あ》げの剃刀傷《かみそりきず》だの、ズボンの膝《ひざ》のたるんでいることだの、――そのほか一々数えるにも足らぬ無数の事
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