同時にまたNさんも左の手を離した。それから相手がよろよろする間《ま》に一生懸命に走り出した。
Nさんは息を切らせながら、(後《あと》になって気がついて見ると、風呂敷《ふろしき》に包んだ何斤《なんぎん》かの氷をしっかり胸に当てていたそうである。)野田の家《うち》の玄関へ走りこんだ。家の中は勿論ひっそりしている。Nさんは茶の間《ま》へ顔を出しながら、夕刊をひろげていた女隠居にちょっと間《ま》の悪い思いをした。
「Nさん、あなた、どうなすった?」
女隠居はNさんを見ると、ほとんど詰《なじ》るようにこう言った。それは何もけたたましい足音に驚いたためばかりではない。実際またNさんは笑ってはいても、体の震《ふる》えるのは止《と》まらなかったからである。
「いえ、今そこの坂へ来ると、いたずらをした人があったものですから、……」
「あなたに?」
「ええ、後《うしろ》からかじりついて、『姐《ねえ》さん、お金をおくれよう』って言って、……」
「ああ、そう言えばこの界隈《かいわい》には小堀《こぼり》とか云う不良少年があってね、……」
すると次の間《ま》から声をかけたのはやはり床《とこ》についている雪さんである。しかもそれはNさんには勿論《もちろん》、女隠居にも意外だったらしい、妙に険《けん》のある言葉だった。
「お母様《かあさま》、少し静かにして頂戴《ちょうだい》。」
Nさんはこう云う雪さんの言葉に軽い反感――と云うよりもむしろ侮蔑《ぶべつ》を感じながら、その機会に茶の間《ま》を立って行った。が、清太郎に似た不良少年の顔は未《いま》だに目の前に残っている。いや、不良少年の顔ではない。ただどこか輪郭《りんかく》のぼやけた清太郎自身の顔である。
五分ばかりたった後《のち》、Nさんはまた濡《ぬ》れ縁《えん》をまわり、離れへ氷嚢《ひょうのう》を運んで行った。清太郎はそこにいないかも知れない、少くとも死んでいるのではないか?――そんな気もNさんにはしないではなかった。が、離れへ行って見ると、清太郎は薄暗い電燈の下《した》に静かにひとり眠っている。顔もまた不相変《あいかわらず》透きとおるように白い。ちょうど庭に一ぱいに伸びた木賊《とくさ》の影の映《うつ》っているように。
「氷嚢をお取り換え致しましょう。」
Nさんはこう言いかけながら、後ろが気になってならなかった。
× × ×
僕はこの話の終った時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。
「清太郎?――ですね。あなたはその人が好きだったんでしょう?」
「ええ、好きでございました。」
Nさんは僕の予想したよりも遥《はる》かにさっぱりと返事をした。
[#地から1字上げ](大正十五年八月十二日)
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年2月1日公開
2004年3月7日修正
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