なさらないのでございます。」
少年は熱心に情に激したやうに云ふ。恰も其心を瞬刻の言と思とにこめたやうに云ふのである。老人は遅々として迫らぬ如く答へる。恰も其心を遠き日と遠き行とに奪はれた如く答へるのである。
「己はお前に、己の休息する事の出来ない訣を話して聞かせよう。何も隠す必要はない。お前は此五年有余の年月を、忠実に、時には愛情を以て己に仕へてくれた。己は其おかげで、何時の世にも賢哲を苦める落莫の情を、僅なりとも慰める事が出来たのだ。其上己の戒行の終と心願の成就とも、今は目の前に迫つてゐる。それ故お前は一層此訣を知る必要があるのだ。」
「御師匠様、私があなたにおたづね申したいやうに思召して下さいますな。火をおこして置きますのも、雨の洩らぬやうに茅葺を緊《かた》くして置きますのも、遠い林の中へ風に吹飛されませぬやうに茅葺きを丈夫にして置きますのも、皆私の勤でございます。重い本を棚から下しますのも、精霊の名を連ねた大きな画巻を其隅から擡《もた》げますのも、其間は純一な敬虔な心になつて居りますのも、亦皆私の勤でございます。それは神様が其無量の智慧をありとあらゆる生き物にお分ちなさいましたのを、私はよく存じて居るからでございます。そしてそのやうな事を致しますのが、私の智慧なのでございます。」
「お前は恐れてゐるな。」老人の眼はかう云つた。さうしてその眼は一瞬の怒に煌いた。
「時によりますと夜、あなたが秦皮樹の杖を持つて、本をよんでお出になりますと、私は戸の外に不思議な物を見ることがございます。灰色の巨人《おほびと》が榛の間に豕《ゐのこ》を駆つて行くかと思ひますと、大ぜいの矮人《こびと》が紅い帽子をかぶつて、小さな白い牝牛を、其前に逐つて参ります。私は灰色の人ほど、矮人を怖くは思ひませぬ。それは矮人が此家に近づきますと、牛の乳を搾つて其泡立つた乳を飲み、それから踊りをはじめるからでございます。私は踊の好きな者の心には、邪《よこしま》のないのをよく知つて居ります。けれども私は矢張矮人が恐しうございます。それから私は、あの空から現れて、静に其処此処をさまよひ歩く、丈の高い、腕の白い、女子《をなご》たちも怖うございます。あの女子たちは百合や薔薇をつんで、花冠に致します。そしてあの魂のある髪の毛を左右に振つてゐるのでございます。其女子たちの互に話すのをききますと、その髪は女子たち
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