君は泣かないのかい」
僕は、君の弟の肩をたたいて、きいてみた。
「泣くものか。僕は男じゃないか」
さながら、この自明の理を知らない僕をあわれむような調子である。僕はまた、微笑した。
船はだんだん、遠くなった。もう君の顔も見えない。ただ、扇をあげて、時々こっちの万歳に答えるのだけがわかる。
「おい、みんなひなたへ出ようじゃないか。日かげにいると、向こうからこっちが見えない」
久米《くめ》が、皆をふり返ってこう言った。そこで、皆ひなたへ出た。僕はやはり帽子をあげて立っている。僕のとなりには、ジョオンズが、怪しげなパナマをふっている。その前には、背の高い松岡《まつおか》と背の低い菊池《きくち》とが、袂《たもと》を風に翻しながら、並んで立っている。そうして、これも帽子をふっている。時々、久米が、大きな声を出して、「成瀬《なるせ》」と呼ぶ。ジョオンズが、口笛をふく。君の弟が、ステッキをふりまわして「兄さん万歳」を連叫《れんきょう》する。――それが、いよいよ、君が全く見えなくなるまで、続いた。
帰りぎわに、ふりむいて見たら、例の年よりの異人《いじん》は、まだ、ぼんやり船の出て行った方をながめている。すると、僕といっしょにふりむいたジョオンズは、指をぴんと鳴らしながら、その異人の方を顋《あご》でしゃくって He is a beggar とかなんとか言った。
「へえ、乞食《こじき》かね」
「乞食さ。毎日、波止場をうろついているらしい。己はここへよく来るから、知っている」
それから、彼は、日本人のフロックコオトに対する尊敬の愚《ぐ》なるゆえんを、長々と弁じたてた。僕のセンティメンタリズムは、ここでもまたいよいよ「燃焼」せざるべく、新に破壊されたわけである。
そのうちに、久米と松岡とが、日本の文壇の状況を、活字にして、君に報ずるそうだ。僕もまた近々に、何か書くことがあるかもしれない。
[#地から2字上げ](大正五年九月)
底本:「羅生門・鼻・芋粥」角川文庫、角川書店
1950(昭和25)年10月20日初版発行
1985(昭和60)年11月10日改版38版発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月12日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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