したとも云ひふらした。が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか? 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必《かならず》この疑問を話題にした。さうして彼是《かれこれ》二月ばかり経つと――全く信子を忘れてしまつた。勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。彼等の家はその界隈《かいわい》でも最も閑静な松林にあつた。松脂《まつやに》の匂と日の光と、――それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活《い》き活きした沈黙を領してゐた。信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
「――もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。御姉様。どうか、どうか私を御赦《おゆる》し下さい。照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居
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