彼は悲しさにも増した口惜《くや》しさに一ぱいになったまま、さらにまた震《ふる》え泣きに泣きはじめた。しかしもう意気地《いくじ》のない彼には誰一人好意を示すものはいない。のみならず彼等は口々に川島の言葉を真似《まね》しながら、ちりぢりにどこかへ駈《か》け出して行った。
「やあい、お母さんって泣いていやがる!」
 保吉は次第に遠ざかる彼等の声を憎み憎み、いつかまた彼の足もとへ下りた無数の鳩にも目をやらずに、永い間|啜《すす》り泣きをやめなかった。
 保吉は爾来《じらい》この「お母さん」を全然川島の発明した※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》とばかり信じていた。ところがちょうど三年以前、上海《シャンハイ》へ上陸すると同時に、東京から持ち越したインフルエンザのためにある病院へはいることになった。熱は病院へはいった後《のち》も容易に彼を離れなかった。彼は白い寝台《しんだい》の上に朦朧《もうろう》とした目を開いたまま、蒙古《もうこ》の春を運んで来る黄沙《こうさ》の凄《すさま》じさを眺めたりしていた。するとある蒸暑《むしあつ》い午後、小説を読んでいた看護婦は突然|椅子《いす》を離れると、寝台の側へ歩み寄りながら、不思議そうに彼の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「あら、お目覚になっていらっしゃるんですか?」
「どうして?」
「だって今お母さんって仰有《おっしゃ》ったじゃありませんか?」
 保吉はこの言葉を聞くが早いか、回向院《えこういん》の境内《けいだい》を思い出した。川島もあるいは意地の悪い※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]をついたのではなかったかも知れない。
[#地から1字上げ](大正十三年四月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月8日公開
2004年3月9日修正
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