語学的天才のためばかりではない。粟野さんはいかにも長者《ちょうじゃ》らしい寛厚《かんこう》の風を具《そな》えている。保吉は英吉利語の教科書の中に難解の個所を発見すると、必ず粟野さんに教わりに出かけた。難解の、――もっとも時間を節約するために、時には辞書《じしょ》を引いて見ずに教わりに出かけたこともない訣《わけ》ではない。が、こう云う場合には粟野さんに対する礼儀上、当惑《とうわく》の風を装《よそ》うことに全力を尽したのも事実である。粟野さんはいつも易《やす》やすと彼の疑問を解決した。しかし余り無造作《むぞうさ》に解決出来る場合だけは、――保吉は未《いま》だにはっきりと一思案《ひとしあん》を装《よそお》った粟野さんの偽善的《ぎぜんてき》態度を覚えている。粟野さんは保吉の教科書を前に、火の消えたパイプを啣《くわ》えたまま、いつもちょっと沈吟《ちんぎん》した。それからあたかも卒然《そつぜん》と天上の黙示《もくじ》でも下《くだ》ったように、「これはこうでしょう」と呼びかけながら、一気にその個所を解決した。保吉はこの芝居のために、――この語学的天才よりもむしろ偽善者たる教えぶりのために、どのくらい粟野さんを尊敬したであろう。……
「あしたはもう日曜ですね。この頃もやっぱり日曜にゃ必ず東京へお出かけですか?」
「ええ、――いいえ、明日《あした》は行《ゆ》かないことにしました。」
「どうして?」
「実はその――貧乏《びんぼう》なんです。」
「常談《じょうだん》でしょう。」
粟野さんはかすかに笑い声を洩《も》らした。やや鳶色《とびいろ》の口髭《くちひげ》のかげにやっと犬歯《けんし》の見えるくらい、遠慮深そうに笑ったのである。
「君は何しろ月給のほかに原稿料もはいるんだから、莫大《ばくだい》の収入を占めているんでしょう。」
「常談でしょう」と言ったのは今度は相手の保吉である。それも粟野さんの言葉よりは遥《はる》かに真剣に言ったつもりだった。
「月給は御承知の通り六十円ですが、原稿料は一枚九十銭なんです。仮に一月《ひとつき》に五十枚書いても、僅かに五九《ごっく》四十五円ですね。そこへ小雑誌《しょうざっし》の原稿料は六十銭を上下《じょうげ》しているんですから……」
保吉はたちまち熱心にいかに売文に糊口《ここう》することの困難であるかを弁《べん》じ出した。弁じ出したばかりではない。彼の生
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