《さっぷうけい》な書棚《しょだな》の向うに全然姿を隠している。しかし薄蒼《うすあお》いパイプの煙は粟野さんの存在を証明するように、白壁《しらかべ》を背にした空間の中へ時々かすかに立ち昇《のぼ》っている。窓の外の風景もやはり静かさには変りはない。曇天《どんてん》にこぞった若葉の梢《こずえ》、その向うに続いた鼠色の校舎、そのまた向うに薄光《うすひか》った入江、――何もかもどこか汗ばんだ、もの憂《う》い静かさに沈んでいる。
保吉は巻煙草を思い出した。が、たちまち物売りに竹箆返《しっぺいがえ》しを食わせた後《のち》、すっかり巻煙草を買うことを忘れていたのを発見した。巻煙草も吸われないのは悲惨《ひさん》である。悲惨?――あるいは悲惨ではないかも知れない。衣食の計に追われている窮民《きゅうみん》の苦痛に比《くら》べれば、六十何銭かを歎ずるのは勿論|贅沢《ぜいたく》の沙汰《さた》であろう。けれども苦痛そのものは窮民も彼も同じことである。いや、むしろ窮民よりも鋭い神経を持っている彼は一層《いっそう》の苦痛をなめなければならぬ。窮民は、――必ずしも窮民と言わずとも好《い》い。語学的天才たる粟野さんはゴッホの向日葵《ひまわり》にも、ウォルフのリイドにも、乃至《ないし》はヴェルアアランの都会の詩にも頗《すこぶ》る冷淡に出来上っている。こう云う粟野さんに芸術のないのは犬に草のないのも同然であろう。しかし保吉に芸術のないのは驢馬《ろば》に草のないのも同然である。六十何銭かは堀川保吉に精神的|饑渇《きかつ》の苦痛を与えた。けれども粟野|廉太郎《れんたろう》には何の痛痒《つうよう》をも与えないであろう。
「堀川君。」
パイプを啣《くわ》えた粟野さんはいつのまにか保吉の目の前へ来ている。来ているのは格別不思議ではない。が、禿《は》げ上《あが》った額《ひたい》にも、近眼鏡《きんがんきょう》を透《す》かした目にも、短かに刈り込んだ口髭《くちひげ》にも、――多少の誇張を敢てすれば、脂光《やにびか》りに光ったパイプにも、ほとんど女人《にょにん》の嬌羞《きょうしゅう》に近い間《ま》の悪さの見えるのは不思議である。保吉は呆気《あっけ》にとられたなり、しばらくは「御用ですか?」とも何とも言わずに、この処子《しょし》の態《さま》を帯びた老教官の顔を見守っていた。
「堀川君、これは少しですが、……」
粟野さん
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