った。風呂場《ふろば》の手桶《ておけ》には山百合《やまゆり》が二本、無造作《むぞうさ》にただ抛《ほう》りこんであった。何だかその匂《におい》や褐色の花粉がべたべた皮膚《ひふ》にくっつきそうな気がした。
 多加志はたった一晩のうちに、すっかり眼が窪《くぼ》んでいた。今朝《けさ》妻が抱き起そうとすると、頭を仰向《あおむ》けに垂らしたまま、白い物を吐《は》いたとか云うことだった。欠伸《あくび》ばかりしているのもいけないらしかった。自分は急にいじらしい気がした。同時にまた無気味《ぶきみ》な心もちもした。Sさんは子供の枕もとに黙然《もくねん》と敷島《しきしま》を啣《くわ》えていた。それが自分の顔を見ると、「ちとお話したいことがありますから」と云った。自分はSさんを二階に招じ、火のない火鉢をさし挟《はさ》んで坐った。「生命に危険はないと思いますが」Sさんはそう口を切った。多加志はSさんの言葉によれば、すっかり腸胃を壊《こわ》していた。この上はただ二三日の間《あいだ》、断食《だんじき》をさせるほかに仕かたはなかった。「それには入院おさせになった方が便利ではないかと思うんです」自分は多加志の容体《ようだい》はSさんの云っているよりも、ずっと危《あやう》いのではないかと思った。あるいはもう入院させても、手遅れなのではないかとも思った。しかしもとよりそんなことにこだわっているべき場合ではなかった。自分は早速Sさんに入院の運びを願うことにした。「じゃU病院にしましょう。近いだけでも便利ですから」Sさんはすすめられた茶も飲まずに、U病院へ電話をかけに行った。自分はその間に妻を呼び、伯母にも病院へ行って貰うことにした。
 その日は客に会う日だった。客は朝から四人ばかりあった。自分は客と話しながら、入院の支度《したく》を急いでいる妻や伯母を意識していた。すると何か舌の先に、砂粒《すなつぶ》に似たものを感じ出した。自分はこのごろ齲歯《むしば》につめたセメントがとれたのではないかと思った。けれども指先に出して見ると、ほんとうの歯の欠けたのだった。自分は少し迷信的になった。しかし客とは煙草《たばこ》をのみのみ、売り物に出たとか噂のある抱一《ほういつ》の三味線の話などをしていた。
 そこへまた筋肉労働者と称する昨日《きのう》の青年も面会に来た。青年は玄関に立ったまま、昨日貰った二冊の本は一円二十銭にし
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