原稿を貰いに顔を出した。N君は泥まみれの長靴《ながぐつ》をはき、外套《がいとう》に雨の痕《あと》を光らせていた。自分は玄関に出迎えたまま、これこれの事情のあったために、何も書けなかったと云う断《ことわ》りを述べた。N君は自分に同情した。「じゃ今度はあきらめます」とも云った。自分は何だかN君の同情を強《し》いたような心もちがした。同時に体《てい》の好《い》い口実に瀕死《ひんし》の子供を使ったような気がした。
N君の帰ったか帰らないのに、伯母も病院から帰って来た。多加志は伯母の話によれば、その後《ご》も二度ばかり乳を吐いた。しかし幸い脳にだけは異状も来ずにいるらしかった。伯母はまだこのほかに看護婦は気立ての善さそうなこと、今夜は病院へ妻の母が泊《とま》りに来てくれることなどを話した。「多加ちゃんがあすこへはいると直《すぐ》に、日曜学校の生徒からだって、花を一束《ひとたば》貰ったでしょう。さあ、お花だけにいやな気がしてね」そんなことも話していた。自分はけさ話をしている内に、歯の欠けたことを思い出した。が、何とも云わなかった。
家を出た時はまっ暗だった。その中に細かい雨が降っていた。自分は門を出ると同時に、日和下駄《ひよりげた》をはいているのに心づいた。しかもその日和下駄は左の前鼻緒《まえばなお》がゆるんでいた。自分は何だかこの鼻緒が切れると、子供の命も終りそうな気がした。しかしはき換えに帰るのはとうてい苛立《いらだ》たしさに堪えなかった。自分は足駄《あしだ》を出さなかった女中の愚《ぐ》を怒《いか》りながら、うっかり下駄《げた》を踏み返さないように、気をつけ気をつけ歩いて行った。
病院へ着いたのは九時過ぎだった。なるほど多加志の病室の外には姫百合《ひめゆり》や撫子《なでしこ》が五六本、洗面器の水に浸《ひた》されていた。病室の中の電燈の玉に風呂敷か何か懸っていたから、顔も見えないほど薄暗かった。そこに妻や妻の母は多加志を中に挟《はさ》んだまま、帯を解かずに横になっていた。多加志は妻の母の腕を枕に、すやすや寝入っているらしかった。妻は自分の来たのを知ると一人だけ布団《ふとん》の上に坐り、小声に「どうも御苦労さま」と云った。妻の母もやはり同じことを云った。それは予期していたよりも、気軽い調子を帯びたものだった。自分は幾分かほっとした気になり、彼等の枕もとに腰を下した。妻は乳
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