ず分ると云ひましたが、私の長い経験から、何も人の秘密を知る必要はありませんから、その指環は嵌めずに、帯の間に入れて置きました。しかし私が思ひますに、何処の王様でも、王様は我儘者ですから、もしも私が恥しめられる様な事がありましたら毒を呑んで死んでしまはうと思つて、かうして毒を持つてゐるのです。」と云ふのを次の室で聞いてゐた王様は、自分の誤りから老人を疑つた事を深く詫びて、そこで食卓を共にする事となりました。その時着物を着換へに出て行つた娘が入つてくるのを見ると、驚いた事には、膏薬だらけだつた娘は、非常に美しい、以前の美しさにも比べられない美しさになつてゐました。驚いて見てゐた王様に娘は「王様、私は決して悪い病気にかかつたのではありません。私はあなたの心を試さうとして、顔に膏薬をはつてゐたのです。」と云ひながら、卓子《テエブル》の抽出しから一つの指環を出して、「私が未だ町に居りました時、一人の乞食からこの銀の指環を貰ひました。この指環を嵌めてゐると、如何なる男の心をも捉へる事が出来ると云ふのでしたが、私はさう云ふ手段による事は正しくないと悟りましたので、決してこの指環は嵌めませんでしたが、指環によらないで自分を本当に愛して下さる人を見付けたのは本当にうれしい事です。」と云ひました。王様は「三人共指環を貰つてゐるのに実際指にそれを嵌めたのは、私一人であつて、しかもそれによつて誤まらされたのは自分一人である。こんな指環は私には必要なものではない。」と云つて床に投げ付けると、その指環は割れて、内から焔が立つて、アラアがその焔の中から出て三人に祝福を与へて消えてしまひました。
そこで王様は、この娘を妃にし、又この老人を大臣として政治を行つてゐました。然るに晩年に至つて乱が起つて、王様は大臣と妃を伴れて、国を逃れてチフリス河のほとりに止り、そこで、自ら食を求めると云ふ様な境遇になりました。が、しかしそこには、どこか楽しい所がありました。(談話)
※[#ローマ数字2、1−13−22]
一
バグダツドの或モスク(寺院)の前《まへ》です。年をとつた乞食が一人《ひとり》、敷石の上にひれ伏してゐました。丁度礼拝の終つた時ですから、老若さまざまのアラビア人は薄暗いモスクの玄関から、朝日の光のさした町へ何人もぞろぞろ出て来るのです。が、誰一人この乞食に銭を投げてやるものはありません。その内に若い商人が一人、静かに石段を下りて来ました。商人は乞食の姿を見ると、ふとあはれに思つたのでせう、小銭を一枚投げてやりました。
乞食 難有うございます。陛下!
商人は妙な顔をしました。陛下と云ふのはアラビアではカリフ(王)だけにつける尊称ですから。しかし商人は何も云はずに、乞食の前《まへ》
乞食 アラア(神)は陛下をお守り下さいませ
※[#ローマ数字3、1−13−23]
を通りすぎようとしました。すると乞食は追ひかけるやうに、もう一度かう繰返すのです。
乞食 難有うございます。陛下! アラアは陛下をお守り下さいませう。
商人は足を止めました。
商人 お前は勿体ないことを云ふぢやないか? わたしは唯の商人だよ。椰子の実を商ふハアヂと云ふものだよ。陛下などと呼ぶのはやめておくれ。
乞食 いえ 陛下は商人ではございません。陛下はカリフ・アブダル陛下でございます。
商人 わたしがあのアブダル陛下! ははあ、お前は気違ひだな。気違ひならば仕かたはない。が、愚図愚図してゐると、今度はアラアと間違へられさうだ。
商人は苦《にが》い顔をしたなり、さつさと又行きすぎさうにしました。しかし乞食は骨張つた手に商人の裾を捉へながら、剛情になほ云ひ続けました。
乞食 陛下! お隠しになつてはいけません。陛下は聡明のおん名の高いアブダル陛下でございます。或時は商人におなりになり、又或時は駱駝追ひにおなりになり、政治の善悪を御覧になると云ふアブダル陛下でございます。どうか御本名をお明し下さい。いや、お明し下さらないでも、どうかこの指環をお受けとり下さい。
乞食は茫然とした商人に指環を一つ渡しました。それは大きいダイアモンドを嵌めた、美しい金《きん》の指環なのです。
乞食 陛下は聡明のおん名の高いアブダル陛下でございます。しかし悪人の毒害《どくがい》だけはお見破りになることは出来ますまい。ところがその指環のダイアモンドは毒薬の気を感じさへすれば、忽ちまつ黒に変つてしまひます。ですからどうかこの後は始終その指環をお嵌め下さい。さうすればたとひ御家来に悪人が大勢居りましても、毒害におあひになることはございません。
呆気にとられた商人は唯乞食と指環とを見比べてゐるばかりです。
乞食 その指環は唯の指環ではございません。或ヂン(魔神)の宝《たから》にしてゐた魔法の指環でございま
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