貧しい母親の手をひっぱっていた。
「あの林檎を買っておくれよう!」
悪魔はちょっと足を休め、ファウストにこの子供を指し示した。
「あの林檎を御覧なさい。あれは拷問《ごうもん》の道具ですよ。」
ファウストの悲劇はこういう言葉にやっと五幕目の幕を挙げはじめたのである。
二 なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?
ソロモンは生涯にたった一度シバの女王に会っただけだった。それは何もシバの女王が遠い国にいたためではなかった。タルシシの船や、ヒラムの船は三年に一度金銀や象牙《ぞうげ》や猿や孔雀《くじゃく》を運んで来た。が、ソロモンの使者の駱駝《らくだ》はエルサレムを囲んだ丘陵や沙漠《さばく》を一度もシバの国へ向ったことはなかった。
ソロモンはきょうも宮殿の奥にたった一人|坐《すわ》っていた。ソロモンの心は寂しかった。モアブ人、アンモニ人、エドミ人、シドン人、ヘテ人|等《とう》の妃《きさき》たちも彼の心を慰めなかった。彼は生涯に一度会ったシバの女王のことを考えていた。
シバの女王は美人ではなかった。のみならず彼よりも年をとっていた。しかし珍しい才女だった。ソロモ
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング