頼漢になったのか。だから人間はあてにならない。」
 山川技師は椅子の背へ頭をつけながら、足をのばして、皮肉に葉巻の煙を天井へ吐いた。
「あてにならないと云うのは、あいつが猫をかぶっていたと云う意味か。」
「そうさ。」
「いや、僕はそう思わない。少くともあの時は、あいつも真面目にそう感じていたのだろうと思う。恐らくは今度もまた、首が落ちると同時に(新聞の語《ことば》をそのまま使えば)やはりそう感じたろう。僕はそれをこんな風に想像する。あいつは喧嘩をしている中《うち》に、酔っていたから、訳なく卓子《テエブル》と一しょに抛《ほう》り出された。そうしてその拍子に、創口が開《あ》いて、長い辮髪《べんぱつ》をぶらさげた首が、ごろりと床の上へころげ落ちた。あいつが前に見た母親の裙子《くんし》とか、女の素足とか、あるいはまた花のさいている胡麻畑とか云うものは、やはりそれと同時にあいつの眼の前を、彷彿として往来した事だろう。あるいは屋根があるにも関《かかわ》らず、あいつは深い蒼空《あおぞら》を、遥か向うに望んだかも知れない。あいつはその時、しみじみまた今までの自分の生活が浅ましくなった。が、今度はもう間に合わない。前には正気を失っている所を、日本の看護卒が見つけて介抱してやった。今は喧嘩の相手が、そこをつけこんで打《ぶ》ったり蹴ったりする。そこであいつは後悔した上にも後悔しながら息をひきとってしまったのだ。」
 山川技師は肩をゆすって笑った。
「君は立派な空想家だ。だが、それならどうしてあいつは、一度そう云う目に遇《あ》いながら、無頼漢なんぞになったのだろう。」
「それは君の云うのとちがった意味で、人間はあてにならないからだ。」
 木村少佐は新しい葉巻に火をつけてから、ほとんど、得意に近いほど晴々《はればれ》した調子で、微笑しながらこう云った。
「我々は我々自身のあてにならない事を、痛切に知って置く必要がある。実際それを知っているもののみが、幾分でもあてになるのだ。そうしないと、何小二《かしょうじ》の首が落ちたように、我々の人格も、いつどんな時首が落ちるかわからない。――すべて支那の新聞と云うものは、こんな風に読まなくてはいけないのだ。」
[#地から1字上げ](大正六年十二月)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月8日修正
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