や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う莫迦《ばか》だろう。」
 何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の平首《ひらくび》にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。その勢に驚いて、時々|鶉《うずら》の群《むれ》が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には頓着《とんじゃく》しない。背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。
 だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟《しんぎん》の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅《あかがね》のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩《ゆる》い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方《ゆくて》に明《あかる》く開けた時、運命は二三本の川楊《かわやなぎ》の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢《こずえ》に集めながら、厳《いかめ》しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛《ほう》り出した。
 その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の廚房《ちゅうぼう》で、大きな竈《かまど》の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。「ああ火が燃えている」と思う――その次の瞬間には彼はもういつか正気《しょうき》を失っていた。………

        中

 馬の上から転げ落ちた何小二《かしょうじ》は、全然正気を失ったのであろうか。成程《なるほど》創《きず》の疼《いた》みは、いつかほとんど、しなくなった。が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横《よこた》わりながら、川楊《かわやなぎ》の葉が撫でている、高い蒼空《あおぞら》を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな藍《あい》の瓶《かめ》をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ※[#「條」の「木」に代えて「羽」の旧字体、第3水準1−90−31]然《ゆうぜん》と消えてしまう。これが丁度絶えず動いている川
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