が見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき抜いて、咄嗟《とっさ》に馬の頭《かしら》をその方へ立て直した。勿論その時は、万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。そこにあるのは、ただ敵である。あるいは敵を殺す事である。だから彼等は馬の頭を立て直すと、いずれも犬のように歯をむき出しながら、猛然として日本騎兵のいる方へ殺到した。すると敵も彼等と同じ衝動に支配されていたのであろう。一瞬の後には、やはり歯をむき出した、彼等の顔を鏡に映したような顔が、幾つも彼等の左右に出没し始めた。そうしてその顔と共に、何本かの軍刀が、忙《いそが》しく彼等の周囲に、風を切る音を起し始めた。
それから後《のち》の事は、どうも時間の観念が明瞭でない。丈《たけ》の高い高粱が、まるで暴風雨《あらし》にでも遇ったようにゆすぶれたり、そのゆすぶれている穂の先に、銅《あかがね》のような太陽が懸っていたりした事は、不思議なくらいはっきり覚えている。が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚《わめ》きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。その中に、ふりまわしている軍刀の※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》が、だんだん脂汗《あぶらあせ》でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開《あ》きながら、突然彼の馬の前に跳《おど》り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から刎《は》ね上げた、向うの軍刀の鋼《はがね》である。その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しくかん[#「かん」に傍点]と冴《さ》え渡って、磨いた鉄の冷かな臭《におい》を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。そうしてそれと共に、眩《まばゆ》く日を反射
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