(これが、白羽扇《はくうせん》を持つてゐた儒者である。)風通しのいゝ室《へや》で、竹婦人《ちくふじん》に靠《もた》れながら、棋局を闘《たゝか》はせてゐると、召使ひの※[#「Y」に似た字、第4水準2−1−6]鬟《あくわん》が来て、「唯今、宝幢寺《はうどうじ》とかにゐると云ふ、坊さんが御見えになりまして、是非、御主人に御目にかゝりたいと申しますが、いかゞ致しませう。」と云ふ。
「なに、宝幢寺?」かう云つて、劉は小さな眼《め》を、まぶしさうに、しばたたいたが、やがて、暑さうに肥つた体を起しながら、「では、こゝへ御通し申せ。」と云ひつけた。それから、孫先生の顔をちよいと見て「大方あの坊主でせう。」とつけ加へた。
宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域《せいいき》から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹《べうえん》が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。――この噂は、二人とも聞いてゐた。その蛮僧が、今、何の用で、わざわざ、劉の所へ出むいて来たのであらう。勿論、劉の方から、迎へにやつた覚えなどは、全然ない。
序に云つて置くが、劉は、一体、来客を悦ぶやうな男ではない。が、他《た》に一人、来客がある場合に、新来の客が来たとなると、大抵ならば、快く会つてやる。客の手前、客のあるのを自慢するとでも云つたらよささうな、小供らしい虚栄心を持つてゐるからである。それに、今日の蛮僧は、この頃、どこででも評判になつてゐる。決して、会つて恥しいやうな客ではない。――劉が会はうと云ひ出した動機は、大体こんな所にあつたのである。
「何の用でせう。」
「まづ、物貰ひですな。信施《しんぜ》でもしてくれと云ふのでせう。」
こんな事を、二人で話してゐる内に、やがて、※[#「Y」に似た字、第4水準2−1−6]鬟《あくわん》の案内で、はいつて来たのを見ると、背《せい》の高い、紫石稜《しせきれう》のやうな眼をした、異形《いぎやう》な沙門である。黄色い法衣《ころも》を着て、その肩に、縮れた髪の伸びたのを、うるささうに垂らしてゐる。それが、朱柄の麈尾《しゆび》を持つたまゝ、のつそり室《へや》のまん中に立つた。挨拶もしなければ、口もきかない。
劉は、しばらく、ためらつてゐたが、その内に、それが何となく、不安になつて来たので「何か御用かな。」と訊いて見た。
すると、蛮僧が云つた。「あなたでせうな、酒が好きなのは。」
「さやう。」劉は、あまり問が唐突《だしぬけ》なので、曖昧な返事をしながら、救を求めるやうに、孫先生の方を見た。孫先生は、すまして、独りで、盤面に石を下してゐる。まるで、取り合ふ容子はない。
「あなたは、珍しい病に罹つて御出になる。それを御存知ですかな。」蛮僧は念を押すやうに、かう云つた。劉は、病と聞いたので、けげんな顔をして、竹婦人を撫《な》でながら、
「病――ですかな。」
「さうです。」
「いや、幼少の時から……」劉が何か云はうとすると、蛮僧はそれを遮《さへぎ》つて、
「酒を飲まれても、酔ひますまいな。」
「……」劉は、ぢろぢろ、相手の顔を見ながら、口を噤《つぐ》んでしまつた。実際この男は、いくら酒を飲んでも、酔つた事がないのである。
「それが、病の証拠ですよ。」蛮僧は、うす笑《わらひ》をしながら、語をついで、「腹中に酒虫がゐる。それを除かないと、この病は癒《なほ》りません。貧道は、あなたの病を癒しに来たのです。」
「癒りますかな。」劉は思はず覚束《おぼつか》なさうな声を出した。さうして、自分でそれを恥ぢた。
「癒ればこそ、来ましたが。」
すると、今まで、黙つて、問答を聞いてゐた孫先生が、急に語を挟んだ。
「何か、薬でも御用ひか。」
「いや、薬なぞは用ひるまでもありません。」蛮僧は不愛想《ぶあいさう》に、かう答へた。
孫先生は、元来、道仏の二教を殆、無理由に軽蔑してゐる。だから、道士とか僧侶とかと一しよになつても、口をきいた事は滅多《めつた》にない。それが、今ふと口を出す気になつたのは、全く酒虫と云ふ語の興味に動かされたからで、酒の好きな先生は、これを聞くと、自分の腹の中にも、酒虫がゐはしないかと、聊《いささか》、不安になつて来たのである。所が、蛮僧の不承不承な答を聞くと、急に、自分が莫迦《ばか》にされたやうな気がしたので、先生はちよいと顔をしかめながら、又元の通り、黙々として棋子を下しはじめた。さうして、それと同時に、内心、こんな横柄な坊主に会つたり何ぞする主人の劉を、莫迦げてゐると思ひ出した。
劉の方では、勿論そんな事には頓着《とんちやく》しない。
「では、針でも使ひますかな。」
「なに、もつと造作のない事です。」
「で
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