、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。
 団扇を拾つて、顔をあげた時に、先生の顔には、今までにない表情があつた。見てはならないものを見たと云ふ敬虔《けいけん》な心もちと、さう云ふ心もちの意識から来る或満足とが、多少の芝居気で、誇張されたやうな、甚《はなはだ》、複雑な表情である。
 ――いや、御心痛は、私のやうな子供のない者にも、よくわかります。
 先生は、眩《まぶ》しいものでも見るやうに、稍《やや》、大仰《おほぎやう》に、頸を反らせながら、低い、感情の籠つた声でかう云つた。
 ――有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……
 婦人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。――

        *      *      *

 それから、二時間の後である。先生は、湯にはいつて、晩飯をすませて、食後の桜実《さくらんばう》をつまんで、それから又、楽々と、ヴエランダの籐椅子に腰を下した。
 長い夏の夕暮は、何時までも薄明りをただよはせて、硝子戸《ガラスど》をあけはなした広いヴエランダは、まだ容易に、暮れさうなけ
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