早速テエブルの上の朝鮮|団扇《うちは》をすすめながら、その向う側の椅子に、座をしめた。
――結構なおすまひでございます。
婦人は、稍《やや》、わざとらしく、室《へや》の中を見廻した。
――いや、広いばかりで、一向かまひません。
かう云ふ挨拶に慣れた先生は、折から小間使の持つて来た冷茶を、客の前に直させながら、直《すぐ》に話頭を相手の方へ転換した。
――西山君は如何《いかが》です。別段御容態に変りはありませんか。
――はい。
婦人は、つつましく両手を膝の上に重ねながら、ちよいと語《ことば》を切つて、それから、静にかう云つた。やはり、落着いた、滑《なめらか》な調子で云つたのである。
――実は、今日も伜《せがれ》の事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……
婦人が手にとらないのを遠慮だと解釈した先生は、この時丁度、紅茶茶碗を口へ持つて行かうとしてゐた。なまじひに、くどく、すすめるよりは、自分で啜《すす》つて見せる方がいいと思つたからである。所が、まだ茶碗が、柔《やはらか》な口髭にとどかない中に、婦人の語《ことば》は、突然、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだらうか、飲まないものだらうか。――かう云ふ思案が、青年の死とは、全く独立して、一瞬の間、先生の心を煩はした。が、何時《いつ》までも、持ち上げた茶碗を、片づけずに置く訳には行かない。そこで先生は思切つて、がぶりと半碗の茶を飲むと、心もち眉をひそめながら、むせるやうな声で、「そりやあ」と云つた。
――……病院に居りました間も、よくあれがお噂《うはさ》など致したものでございますから、お忙しからうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思ひまして……
――いや、どうしまして。
先生は、茶碗を下へ置いて、その代りに青い蝋《らふ》を引いた団扇をとりあげながら、憮然《ぶぜん》として、かう云つた。
――とうとう、いけませんでしたかなあ。丁度、これからと云ふ年だつたのですが……私は又、病院の方へも御無沙汰してゐたものですから、もう大抵、よくなられた事だとばかり、思つてゐました――すると、何時になりますかな、なくなられたのは。
――昨日が、丁度初七日でございます。
――やはり病院の方で……
――さやうでございます。
――いや、実際、意外でした。
――何しろ、手のつくせる丈《だけ》は、つくした上なのでございますから、あきらめるより外は、ございませんが、それでも、あれまでに致して見ますと、何かにつけて、愚痴が出ていけませんものでございます。
こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措《きよそ》なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。
――昔、先生が、伯林《ベルリン》に留学してゐた時分の事である。今のカイゼルのおとうさんに当る、ウイルヘルム第一世が、崩御された。先生は、この訃音《ふいん》を行きつけの珈琲店《コオヒイてん》で耳にしたが、元より一通りの感銘しかうけやうはない。そこで、何時ものやうに、元気のいい顔をして、杖を脇にはさみながら、下宿へ帰つて来ると、下宿の子供が二人、扉《ドア》をあけるや否や、両方から先生の頸《くび》に抱きついて、一度にわつと泣き出した。一人は、茶色のジヤケツトを着た、十二になる女の子で、一人は、紺の短いズボンをはいた、九つになる男の子である。子煩悩な先生は、訳がわからないので、二人の明い色をした髪の毛を撫でながら、しきりに「どうした。どうした。」と云つて慰めた。が、子供は中々泣きやまない。さうして、洟《はな》をすすり上げながら、こんな事を云ふ。
――おぢいさまの陛下が、おなくなりなすつたのですつて。
先生は、一国の元首の死が、子供にまで、これ程悲まれるのを、不思議に思つた。独り皇室と人民との関係と云ふやうな問題を、考へさせられたばかりではない。西洋へ来て以来、何度も先生の視聴を動かした、西洋人の衝動的な感情の表白が、今更のやうに、日本人たり、武士道の信者たる先生を、驚かしたのである。その時の怪訝《くわいが》と同情とを一つにしたやうな心もちは、未《いまだ》に忘れようとしても、忘れる事が出来ない。――先生は、今も丁度、その位な程度で、逆に、この婦人の泣かないのを、不思議に思つてゐるのである。
が、第一の発見の後には、間もなく、
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