早速テエブルの上の朝鮮|団扇《うちは》をすすめながら、その向う側の椅子に、座をしめた。
 ――結構なおすまひでございます。
 婦人は、稍《やや》、わざとらしく、室《へや》の中を見廻した。
 ――いや、広いばかりで、一向かまひません。
 かう云ふ挨拶に慣れた先生は、折から小間使の持つて来た冷茶を、客の前に直させながら、直《すぐ》に話頭を相手の方へ転換した。
 ――西山君は如何《いかが》です。別段御容態に変りはありませんか。
 ――はい。
 婦人は、つつましく両手を膝の上に重ねながら、ちよいと語《ことば》を切つて、それから、静にかう云つた。やはり、落着いた、滑《なめらか》な調子で云つたのである。
 ――実は、今日も伜《せがれ》の事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……
 婦人が手にとらないのを遠慮だと解釈した先生は、この時丁度、紅茶茶碗を口へ持つて行かうとしてゐた。なまじひに、くどく、すすめるよりは、自分で啜《すす》つて見せる方がいいと思つたからである。所が、まだ茶碗が、柔《やはらか》な口髭にとどかない中に、婦人の語《ことば》は、突然、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだらうか、飲まないものだらうか。――かう云ふ思案が、青年の死とは、全く独立して、一瞬の間、先生の心を煩はした。が、何時《いつ》までも、持ち上げた茶碗を、片づけずに置く訳には行かない。そこで先生は思切つて、がぶりと半碗の茶を飲むと、心もち眉をひそめながら、むせるやうな声で、「そりやあ」と云つた。
 ――……病院に居りました間も、よくあれがお噂《うはさ》など致したものでございますから、お忙しからうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思ひまして……
 ――いや、どうしまして。
 先生は、茶碗を下へ置いて、その代りに青い蝋《らふ》を引いた団扇をとりあげながら、憮然《ぶぜん》として、かう云つた。
 ――とうとう、いけませんでしたかなあ。丁度、これからと云ふ年だつたのですが……私は又、病院の方へも御無沙汰してゐたものですから、もう大抵、よくなられた事だとばかり、思つてゐました――すると、何時になりますかな、なくなられたのは。
 ――昨日が、丁度初七日でございます。
 ――やはり病院の方で……
 ――さやうでございます。

前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング