ましたら、その向うにある御堂《みどう》の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空《こくう》に何やら形の見えぬものが蟠《わだか》まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
 御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾《みす》を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川《よかわ》の僧都《そうず》が、徐《おもむろ》に肉《しし》の余った顎《おとがい》を動かして、秘密の呪文《じゅもん》を誦《ず》しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神《きんこうじん》が、勇ましく金剛杵《こんごうしょ》をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞《ひぶ》する容子《ようす》は、今しも摩利信乃法師《まりしのほうし》の脳上へ、一杵《いっしょ》を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
 しかし当の摩利信乃法師は、不相変《あいかわらず》高慢の
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