思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召《おぼしめ》さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息《ためいき》をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想《おもい》のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度|五月雨《さみだれ》の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘《おおかさ》をかざしながら、ひそかに二条|西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参りますと、御門《ごもん》は堅く鎖《とざ》してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色《けしき》はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来《ゆきき》も稀な築土路《ついじみち》には、ただ、蛙《かわず》の声が聞えるばかり、雨は益《ますます》降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩《くら》むと云う情ない次第でございます。
 それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫《へいだゆう》と申します私《わたくし》くらいの老侍《おいざむらい》が、これも同じような藤の
前へ 次へ
全99ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング