中に蝗《いなむし》が食ってしまったものもございますが、あの白朱社《はくしゅしゃ》の巫女《みこ》などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩《びゃくらい》になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身《けしん》だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣《つるぎ》にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句《あげく》、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
 そう云う勢いでございますから、日が経《ふ》るに従って、信者になる老若男女《ろうにゃくなんにょ》も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で頭《かしら》を濡《ぬら》すと云う、灌頂《かんちょう》めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依《きえ》した明りが立ち兼《か》ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥《おびただ》しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて覗《のぞ》きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて居《お》るのでございました。何しろ折からの水が温《ぬる》んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩《は》いて畏《かしこま》った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形《いぎょう》な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物《みもの》でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人《ひにん》小屋の間へ、小さな蓆張《むしろば》りの庵《いおり》を造りまして、そこに始終たった一人、佗《わび》しく住んでいたのでございます。

        十三

 そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予《かね》て御心を寄せていらしった中御門《なかみかど》の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘《はなたちばな》の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》と時鳥《ほととぎす》の声とが雨もよいの空を想《おも》わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧《おぼろ》げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数《にんず》も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田《とおだ》の蛙《かわず》の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門《びふくもん》の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土《ついじ》の陰で、怪しい咳《しわぶき》の声がするや否や、きらきらと白刃《しらは》を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々《たけだけ》しく襲いかかりました。
 と同時に牛飼《うしかい》の童部《わらべ》を始め、御供の雑色《ぞうしき》たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破《すわ》と云う間もなく、算《さん》を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色《けしき》もなく、矢庭《やにわ》に一人が牛の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《はづな》を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃《しらは》の垣を造って、犇々《ひしひし》とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立《かしらだ》ったのが横柄に簾《すだれ》を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子《ようす》がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜《ななめ》に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄《しわが》れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々《にくにく》しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈《いよいよ》怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主《ぬし》を、きっと御覧になりますと、面《おもて》こそ包んで居りま
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