。僕はつい二三箇月前にも或小さい同人雑誌にこう云う言葉を発表していた。――「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」……
 姉は三人の子供たちと一しょに露地の奥のバラックに避難していた。褐色の紙を貼ったバラックの中は外よりも寒いくらいだった。僕等は火鉢に手をかざしながら、いろいろのことを話し合った。体の逞《たくま》しい姉の夫は人一倍|痩《や》せ細った僕を本能的に軽蔑《けいべつ》していた。のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。僕はいつも冷やかにこう云う彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかった。しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のように地獄に堕ちていたことを悟り出した。彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云うことだった。が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金《かね》のことばかり話しつづけた。
「何しろこう云う際だしするから、何もかも売ってしまおうと思うの」
「それはそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」
「ええ、それから画などもあるし」
「次手《ついで》にNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
 僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶《うかつ》に常談も言われないのを感じた。轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯|口髭《くちひげ》だけ残っていたとか云うことだった。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違いなかった。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるようにした。
「何をしているの?」
「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまわりだけ、……」
 姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。
「髭だけ妙に薄いようでしょう」
 僕の見たものは錯覚ではなかった。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯《ひるめし》の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、善いでしょう」
「又あしたでも、……きょうは青山まで出かけるのだから」
「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やっぱり薬ばかり嚥《の》んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
 三十分ばかりたった後、僕は或ビルディングへはいり、昇降機《リフト》に乗って三階へのぼった。それから或レストオランの硝子戸を押してはいろうとした。が、硝子戸は動かなかった。のみならずそこには「定休日」と書いた漆塗りの札も下っていた。僕は愈《いよいよ》不快になり、硝子戸の向うのテエブルの上に林檎《りんご》やバナナを盛ったのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。すると会社員らしい男が二人何か快活にしゃべりながら、このビルディングにはいる為に僕の肩をこすって行った。彼等の一人はその拍子に「イライラしてね」と言ったらしかった。
 僕は往来に佇《たたず》んだなり、タクシイの通るのを待ち合せていた。タクシイは容易に通らなかった。のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた)そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。
「イライラする、――tantalizing――Tantalus――Inferno……」
 タンタルスは実際硝子戸越しに果物を眺めた僕自身だった。僕は二度も僕の目に浮んだダンテの地獄を詛《のろ》いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。そのうちに又あらゆるものの※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。
 緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だった。しかしそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。
 僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲って行った。するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。十年|前《ぜん》の僕も幸福ではなかった。しかし少くとも平和だった。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石《そうせき》山房」の芭蕉《ばしょう》を思い出しながら、何か僕の一生も一段
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