堯舜もいなかったとすれば、孔子は※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》をつかれたことになる。聖人の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつかれる筈はない」
 僕は勿論黙ってしまった。それから又皿の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。すると小さい蛆《うじ》が一匹静かに肉の縁に蠢《うご》めいていた。蛆は僕の頭の中に Worm と云う英語を呼び起した。それは又麒麟や鳳凰のように或伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。僕はナイフやフォオクを置き、いつか僕の杯にシャンパアニュのつがれるのを眺めていた。
 やっと晩餐のすんだ後、僕は前にとって置いた僕の部屋へこもる為に人気《ひとげ》のない廊下を歩いて行った。廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与えるものだった。しかし幸いにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでいた。
 僕の部屋には鞄は勿論、帽子や外套も持って来てあった。僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚《いしょうとだな》の中へ抛《ほう》りこんだ。それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。鏡に映った僕の顔は皮膚の下の骨組みを露わしていた。蛆はこう云う僕の記憶に忽ちはっきり浮び出した。
 僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云うことなしに歩いて行った。するとロッビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、脊《せい》の高いスタンドの電燈が一つ硝子《ガラス》戸に鮮《あざや》かに映っていた。それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考えていた。が、そこにも五分とは坐っている訣に行かなかった。レエン・コオトは今度もまた僕の横にあった長椅子の背に如何《いか》にもだらりと脱ぎかけてあった。
「しかも今は寒中だと云うのに」
 僕はこんなことを考えながら、もう一度廊下を引き返して行った。廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかった。しかし彼等の話し声はちょっと僕の耳をかすめて行った。それは何とか言われたのに答えた All right と云う英語だった。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴《つか》もうとあせっていた。「オオル・ライト」? 「オオル・ライト」? 何が一体オオル・ライトなのであろう?
 僕の部屋は勿論ひっそりしていた。が、戸をあけてはいること
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