、へ舞いこんだりした。それもまた僕には愉快だった。「喜雀《きじゃく》堂に入る」――僕はペンを持ったまま、その度にこんな言葉を思い出した。
或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買いに出かけて行った。するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行った。そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を聳《そびや》かせて通りかかった。彼はここに住んでいる被害妄想狂の瑞典《スウエデン》人だった。しかも彼の名はストリントベルグだった。僕は彼とすれ違う時、肉体的に何かこたえるのを感じた。
この往来は僅かに二三町だった。が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だったのを思い出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。若し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いているように感じ、ちょっと往来に立ち止まった。道ばたには針金の柵《さく》の中にかすかに虹《にじ》の色を帯びた硝子の鉢が一つ捨ててあった。この鉢は又底のまわりに翼らしい模様を浮き上らせていた。そこへ松の梢《こずえ》から雀が何羽も舞い下《さが》って来た。が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言い合わせたように一度に空中へ逃げのぼって行った。……
僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子《とういす》に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。
「静かですね、ここへ来ると」
「それはまだ東京よりもね」
「ここでもうるさいことはあるのですか?」
「だってここも世の中ですもの」
妻の母はこう言って笑っていた。実際この避暑地もまた「世の中」であるのに違いなかった。僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇の行われているかを知り悉《つく》していた。徐ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした
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