一角獣の姿を現していた。(僕は木目《もくめ》や珈琲茶碗の亀裂《ひび》に度たび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟《きりん》に違いなかった。僕は或敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟児」と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。
「如何《いかが》ですか、この頃は?」
「不相変神経ばかり苛々《いらいら》してね」
「それは薬でも駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」
「若し僕でもなれるものなら……」
「何もむずかしいことはないのです。唯神を信じ、神の子の基督《キリスト》を信じ、基督の行った奇蹟《きせき》を信じさえすれば……」
「悪魔を信じることは出来ますがね。……」
「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」
「しかし光のない暗《やみ》もあるでしょう」
「光のない暗とは?」
僕は黙るより外はなかった。彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。が、暗のある以上は光もあると信じていた。僕等の論理の異るのは唯こう云う一点だけだった。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝《みぞ》に違いなかった。……
「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云うものは今でも度たび起っているのですよ」
「それは悪魔の行う奇蹟は。……」
「どうして又悪魔などと云うのです?」
僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れない訣にも行かなかった。
「あすこにあるのは?」
この逞《たくま》しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神《ぼくようじん》らしい表情を示した。
「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」
僕は勿論十年|前《ぜん》にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。が、偶然(?)彼の言った『罪と罰』と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。殊に知り人に遇《あ》うことは到底堪えられないのに違いなかった。僕は努めて暗い往来を選び、盗人《ぬすびと》のように歩いて行った。
しかし僕は暫らくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだっ
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