のロッビイの隅には亜米利加人らしい女が一人何か本を読みつづけた。彼女の着ているのは遠目に見ても緑いろのドレッスに違いなかった。僕は何か救われたのを感じ、じっと夜のあけるのを待つことにした。長年の病苦に悩み抜いた揚句、静かに死を待っている老人のように。……

     四 まだ?

 僕はこのホテルの部屋にやっと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。尤《もっと》も僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだった。が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした。
 冬の日の当ったアスファルトの上には紙屑《かみくず》が幾つもころがっていた。それらの紙屑は光の加減か、いずれも薔薇《ばら》の花にそっくりだった。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはいって行った。そこもまたふだんよりも小綺麗《こぎれい》だった。唯|目金《めがね》をかけた小娘が一人何か店員と話していたのは僕には気がかりにならないこともなかった。けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思い出し、「アナトオル・フランスの対話集」や「メリメエの書簡集」を買うことにした。
 僕は二冊の本を抱え、或カッフェへはいって行った。それから一番奥のテエブルの前に珈琲《コーヒー》の来るのを待つことにした。僕の向うには親子らしい男女《なんにょ》が二人坐っていた。その息子は僕よりも若かったものの、殆ど僕にそっくりだった。のみならず彼等は恋人同志のように顔を近づけて話し合っていた。僕は彼等を見ているうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与えていることを意識しているのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。同時に又|現世《げんぜ》を地獄にする或意志の一例にも違いなかった。しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」を読みはじめた、彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムを閃《ひらめ》かせていた。それ等のアフォリズムは僕の気もちをいつか鉄のように巌畳《がんじょう》にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだった)僕は一杯の珈琲を飲み了《おわ》った後《のち》、「何でも来い」と云う気になり、さっさとこのカッフェを後ろにして行った。
 僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗《のぞ》いて行
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