たちが何人も群がつて酒を飲んでゐた。のみならず彼等のまん中には耳隠しに結《ゆ》つた女が一人熱心にマンドリンを弾きつづけてゐた。僕は忽ち当惑を感じ、戸の中へはひらずに引き返した。するといつか僕の影の左右に揺れてゐるのを発見した。しかも僕を照らしてゐるのは無気味にも赤い光だつた。僕は往来に立ちどまつた。けれども僕の影は前のやうに絶えず左右に動いてゐた。僕は怯《お》づ怯づふり返り、やつとこのバアの軒に吊《つ》つた色硝子のランタアンを発見した。ランタアンは烈しい風の為に徐《おもむ》ろに空中に動いてゐた。……
 僕の次にはひつたのは或地下室のレストオランだつた。僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯註文した。
「ウイスキイを? Black and White ばかりでございますが、……」
 僕は曹達《ソオダ》水の中にウイスキイを入れ、黙つて一口づつ飲みはじめた。僕の隣には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話してゐた。のみならず仏蘭西語を使つてゐた。僕は彼等に背中を向けたまま、全身に彼等の視線を感じた。それは実際電波のやうに僕の体にこたへるものだつた。彼等は確かに僕の名を知り、僕の噂《うはさ》をしてゐるらしかつた。
「〔Bien……tre`s mauvais……pourquoi ?……〕」
「Pourquoi ?……le diable est mort !……」
「Oui, oui……d'enfer……」
 僕は銀貨を一枚投げ出し、(それは僕の持つてゐる最後の一枚の銀貨だつた。)この地下室の外へのがれることにした。夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。僕はラスコルニコフを思ひ出し、何ごとも懺悔《ざんげ》したい欲望を感じた。が、それは僕自身の外にも、――いや、僕の家族の外にも悲劇を生じるのに違ひなかつた。のみならずこの欲望さへ真実かどうかは疑はしかつた。若し僕の神経さへ常人のやうに丈夫になれば、――けれども僕はその為にはどこかへ行かなければならなかつた。マドリツドへ、リオへ、サマルカンドへ、……
 そのうちに或店の軒に吊つた、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだつた。僕はこの商標に人工の翼を手《た》よりにした古代の希臘《ギリシヤ》人を思ひ出した。彼は空中に舞ひ上つた揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死してゐた。マドリツドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はかう云ふ僕の夢を嘲笑《あざわら》はない訣《わけ》には行かなかつた。同時に又復讐の神に追はれたオレステスを考へない訣にも行かなかつた。
 僕は運河に沿ひながら、暗い往来を歩いて行つた。そのうちに或郊外にある養父母の家を思ひ出した。養父母は勿論僕の帰るのを待ち暮らしてゐるのに違ひなかつた。恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのづから僕を束縛してしまふ或力を恐れずにはゐられなかつた。運河は波立つた水の上に達磨船《だるまぶね》を一艘横づけにしてゐた。その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしてゐた。そこにも何人かの男女の家族は生活してゐるのに違ひなかつた。やはり愛し合ふ為に憎み合ひながら。……が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔ひを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。
 僕は又机に向ひ、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕に生活力を与へてゐた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になつてゐたことを知ると、俄《には》かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼も亦やはり僕等のやうに暗《やみ》の中を歩いてゐる一人だつた。暗の中を?――「暗夜行路」はかう云ふ僕には恐しい本に変りはじめた。僕は憂欝を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」を読みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を荷《にな》つてゐた。……
 一時間ばかりたつた後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。それ等の一つはライプツイツヒの本屋から僕に「近代の日本の女」と云ふ小論文を書けと云ふものだつた。なぜ彼等は特に[#「特に」に傍点]僕にかう云ふ小論文を書かせるのであらう? のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のやうに黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」と云ふ肉筆のP・Sを加へてゐた。僕はかう云ふ一行に Black and White と云ふウイスキイの名を思ひ出し、ずたずたにこの手紙を破つてしまつた。それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい書簡箋《しよかんせん》に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だつた。しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」と云ふ言葉は僕を苛立《いらだ》たせずには措《お》かなかつた。三番目に封を切つた手紙は僕の甥《をひ》から来たものだつた。僕はやつと一息つき、家事上の問題などを読んで行つた。けれどもそれさへ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。
「歌集『赤光《しやくくわう》』の再版を送りますから……」
 赤光! 僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。廊下には誰も人かげはなかつた。僕は片手に壁を抑へ、やつとロツビイへ歩いて行つた。それから椅子に腰をおろし、兎に角巻煙草に火を移すことにした。巻煙草はなぜかエエア・シツプだつた。(僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスタアばかり吸ふことにしてゐた。)人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。僕は向うにゐる給仕を呼び、スタアを二箱貰うことにした。しかし給仕を信用すれば、スタアだけは生憎《あいにく》品切れだつた。
「エエア・シツプならばございますが、……」
 僕は頭を振つたまま、広いロツビイを眺めまはした。僕の向うには外国人が四五人テエブルを囲んで話してゐた。しかも彼等の中の一人、――赤いワン・ピイスを着た女は小声に彼等と話しながら、時々僕を見てゐるらしかつた。
「Mrs. Townshead……」
 何か僕の目に見えないものはかう僕に囁《ささや》いて行つた。ミセス・タウンズヘツドなどと云ふ名は勿論僕の知らないものだつた。たとひ向うにゐる女の名にしても、――僕は又椅子から立ち上り、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。
 僕は僕の部屋へ帰ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだつた。が、そこへはひることは僕には死ぬことに変らなかつた。僕はさんざんためらつた後、この恐怖を紛らす為に「罪と罰」を読みはじめた。しかし偶然開いた頁《ペエジ》は「カラマゾフ兄弟」の一節だつた。僕は本を間違へたのかと思ひ、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違ひなかつた。僕はこの製本屋の綴《と》ぢ違へに、――その又綴ぢ違へた頁を開いたことに運命の指の動いてゐるのを感じ、やむを得ずそこを読んで行つた。けれども一頁も読まないうちに全身が震へるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴアンを描いた一節だつた。イヴアンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にゐる僕自身を。……
 かう云ふ僕を救ふものは唯眠りのあるだけだつた。しかし催眠剤はいつの間にか一包みも残らずになくなつてゐた。僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪へなかつた。が、絶望的な勇気を生じ、珈琲《コオヒイ》を持つて来て貰つた上、死にもの狂ひにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上つて行つた。僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしてゐた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いてゐた。けれども疲労は徐《おもむ》ろに僕の頭を曇らせはじめた。僕はとうとう机の前を離れ、ベツドの上へ仰向けになつた。それから四五十分間は眠つたらしかつた。しかし又誰か僕の耳にかう云ふ言葉を囁いたのを感じ、忽ち目を醒《さ》まして立ち上つた。
「Le diable est mort」
 凝灰岩の窓の外はいつか冷えびえと明けかかつてゐた。僕は丁度戸の前に佇み、誰もゐない部屋の中を眺めまはした。すると向うの窓硝子は斑《まだ》らに外気に曇つた上に小さい風景を現してゐた。それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に違ひなかつた。僕は怯《お》づ怯づ窓の前へ近づき、この風景を造つてゐるものは実は庭の枯芝や池だつたことを発見した。けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起してゐた。
 僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、兎に角金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。

     六 飛行機

 僕は東海道線の或停車場からその奥の或避暑地へ自動車を飛ばした。運転手はなぜかこの寒さに古いレエン・コオトをひつかけてゐた。僕はこの暗合を無気味に思ひ、努めて彼を見ないやうに窓の外へ目をやることにした。すると低い松の生えた向うに、――恐らくは古い街道に葬式が一列通るのを見つけた。白張りの提灯《ちやうちん》や竜燈《りゆうとう》はその中に加はつてはゐないらしかつた。が、金銀の造花の蓮は静かに輿《こし》の前後に揺《ゆら》いで行つた。……
 やつと僕の家へ帰つた後、僕は妻子や催眠薬の力により、二三日は可也《かなり》平和に暮らした。僕の二階は松林の上にかすかに海を覗《のぞ》かせてゐた。僕はこの二階の机に向かひ、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。鳥は鳩や鴉《からす》の外に雀も縁側へ舞ひこんだりした。それも亦僕には愉快だつた。「喜雀堂《きじやくだう》に入る。」――僕はペンを持つたまま、その度にこんな言葉を思ひ出した。
 或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買ひに出かけて行つた。するとその店に並んでゐるのはセピア色のインクばかりだつた。セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としてゐた。僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行つた。そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を聳《そびや》かせて通りかかつた。彼はここに住んでゐる被害妄想狂の瑞典《スウエデン》人だつた。しかも彼の名はストリントベルグだつた。僕は彼とすれ違ふ時、肉体的に何かこたへるのを感じた。
 この往来は僅《わづ》かに二三町だつた。が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通つて行つた。僕は横町を曲りながら、ブラツク・アンド・ホワイトのウイスキイを思ひ出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だつたのを思ひ出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考へられなかつた。若《も》し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いてゐるやうに感じ、ちよつと往来に立ち止まつた。道ばたには針金の柵の中にかすかに虹の色を帯びた硝子《ガラス》の鉢が一つ捨ててあつた。この鉢は又底のまはりに翼らしい模様を浮き上らせてゐた。そこへ松の梢から雀が何羽も舞ひ下つて来た。が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言ひ合はせたやうに一度に空中へ逃げのぼつて行つた。……
 僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホオン種の鶏が何羽も静かに歩いてゐた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になつてゐた。僕は誰にもわからない疑問を解かうとあせりながら、兎に角外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。
「静かですね、ここへ来ると。」
「それはまだ東京よりもね。」
「ここでもうるさいことはあるのですか?」
「だつてここも世の中ですもの。」
 妻の母はかう言つて笑つてゐた。実際この避暑地も亦「世の中」であるのに違ひなかつた。僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらゐここにも罪悪や悲劇の行はれてゐるかを知り悉《つく》してゐた。徐《おもむ》ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪はうとした弁護士、――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかつた。
「この町には気違ひが一人ゐますね。」
「Hちやんでせ
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