阮l等のやうに暗《やみ》の中を歩いてゐる一人だつた。暗の中を?――「暗夜行路」はかう云ふ僕には恐しい本に変りはじめた。僕は憂欝を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」を読みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を荷《にな》つてゐた。……
 一時間ばかりたつた後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。それ等の一つはライプツイツヒの本屋から僕に「近代の日本の女」と云ふ小論文を書けと云ふものだつた。なぜ彼等は特に[#「特に」に傍点]僕にかう云ふ小論文を書かせるのであらう? のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のやうに黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」と云ふ肉筆のP・Sを加へてゐた。僕はかう云ふ一行に Black and White と云ふウイスキイの名を思ひ出し、ずたずたにこの手紙を破つてしまつた。それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい書簡箋《しよかんせん》に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だつた。しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」と云ふ言葉は僕を苛立《いらだ》たせずには措《お》かなかつた。三番目に封
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