かり容子《ようす》を改めてゐた。就中《なかんづく》僕を不快にしたのはマホガニイまがひの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保つてゐないことだつた。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》このカツフエを出ようとした。
「もし、もし、二十銭頂きますが、……」
 僕の投げ出したのは銅貨だつた。
 僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いてゐるうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思ひ出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない。唯僕を中心にした家族の為に借りた家だつた。僕は彼是《かれこれ》十年前にもかう云ふ家に暮らしてゐた。しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変り出した。……
 前のホテルに帰つたのはもう彼是十時だつた。ずつと長い途を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失ひ、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画してゐた長篇のことを考へ出した。それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの
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