行つた。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ヂヨオヂらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺してゐた。しかもその騎士は兜《かぶと》の下に僕の敵の一人に近いしかめ[#「しかめ」に傍点]面《つら》を半ば露《あらは》してゐた。僕は又「韓非子」の中の屠竜《とりゆう》の技《ぎ》の話を思ひ出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下つて行つた。
 僕はもう夜になつた日本橋通りを歩きながら、屠竜と云ふ言葉を考へつづけた。それは又僕の持つてゐる硯《すずり》の銘にも違ひなかつた。この硯を僕に贈つたのは或若い事業家だつた。彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまつた。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらゐこの地球の小さいかと云ふことを、――従つてどのくらゐ僕自身の小さいかと云ふことを考へようとした。しかし昼間は晴れてゐた空もいつかもうすつかり曇つてゐた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持つてゐるのを感じ、電車線路の向うにある或カツフエへ避難することにした。
 それは「避難」に違ひなかつた。僕はこのカツフエの薔薇《ばら》色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやつと楽々
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