手の背中を眺めてゐた。そのうちに又あらゆるものの※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いづれも皆かう云ふ僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかつた。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放つたりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかつた。
 緑いろのタクシイはやつと神宮前へ走りかかつた。そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だつた。しかしそれもけふだけはなぜか僕にはわからなかつた。僕は電車の線路に沿ひ、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。
 僕はやつとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲つて行つた。するといつか道を間違へ、青山斎場の前へ出てしまつた。それは彼是《かれこれ》十年前にあつた夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さへ通つたことのない建物だつた。十年前の僕も幸福ではなかつた。しかし少くとも平和だつた。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石《そうせき》山房」の芭蕉を思ひ出しながら、何か僕の一生も一段落のついたことを感じない訣《わけ》には行かなかつた
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