樹木になつた魂を思ひ出し、ビルデイングばかり並んでゐる電車線路の向うを歩くことにした。しかしそこも一町とは無事に歩くことは出来なかつた。
「ちよつと通りがかりに失礼ですが、……」
 それは金鈕《きんボタン》の制服を着た二十二三の青年だつた。僕は黙つてこの青年を見つめ、彼の鼻の左の側《わき》に黒子《ほくろ》のあることを発見した。彼は帽を脱いだまま、怯《お》づ怯づかう僕に話しかけた。
「Aさんではいらつしやいませんか?」
「さうです。」
「どうもそんな気がしたものですから、……」
「何か御用ですか?」
「いえ、唯お目にかかりたかつただけです。僕も先生の愛読者の……」
 僕はもうその時にはちよつと帽をとつたぎり、彼を後ろに歩き出してゐた。先生、A先生、――それは僕にはこの頃では最も不快な言葉だつた。僕はあらゆる罪悪を犯してゐることを信じてゐた。しかも彼等は何かの機会に僕を先生と呼びつづけてゐた。僕はそこに僕を嘲《あざけ》る何ものかを感じずにはゐられなかつた。何ものかを?――しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはゐられなかつた。僕はつい二三箇月前にも或小さい同人雑誌にかう云ふ言葉を発表して
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